明の毅宗崇禎年間から清朝初期にかけて活躍したことが知られる。神宗の万暦年間から、次第に明王朝の末期の警鐘が打ち鳴らされていたが、大混乱の様相は未だ表面に出ず、朝廷の仏教政策も未だ健在であった。たとえば、祩宏と真可の二人とも慈聖太后から紫衣を賜わっており(1)、万暦九(一五八一)年十一月には、慈聖太后が五台山において、徳清と真覚(一五三七ー一五八九)を中心とした百二十日の「祈儲道場」を設けさせ(2)、また徳清に大蔵経と金銭を布施している(3)。万暦二十六(一五九八)年になると、僧職・僧位が売買されるようになり、幽渓伝燈はその頃「僧録覚義」という職位を受けたのである(4)。

ところが、明末には政治が乱れたため、朝廷の官僚は、仏教の高僧に対しても勝手に罪名をきせることも少なくなかった。たとえば徧融真円(一五〇六ー一五八四)は、穆宗の時代の刑部尚書の牢獄において、「苦逼万端」の肉刑を受けたし(5)、神宗の万暦二十五(一五九七)乙未年には、政府の命令で憨山徳清が牢獄に投ぜられ、さらに八カ月後には広東省の雷州に配流された(6)。また、神宗の万暦三十一(一六〇三)癸卯年には、達観真可も無実の「妖書」事件で、同様に皇帝の詔書により牢獄に繫がれ、遂に獄中で亡くなったのである(7)。

こうした仏教迫害とともに、明末社会の混乱現象が相いついであらわれてきた。熹宗の天啓二(一六二二)年、すなわち、智旭二十四歳出家の年は、山東省の白蓮教一揆の徐鴻儒作乱の年であって、毅宗の崇禎元(一六二八)年智旭三十歳の時には、陝西省の流賊が暴動を起こしている。それ以後、高祥迎・李自成・張献忠などの匪寇流賊の各地方での兵乱策動が、相継いで起こり、水災・旱魃・疫癘・饑饉などの不運も、つぎつぎと生じたのである。これらについてもまた表にすると次図の如くになる。(図三)