| 17 | 刻書本蔵紫柏大師(一五四三-一六〇三) | 僧風久不振、挺生大聖賢。…(中略)…深知教外旨、終籍文字伝。創刻方冊蔵、助顕直指禅。 |
| 18 | 夢中接引憨山大師(一五四六-一六二三) | 気宇似王者、筆陣若江涛。宗教任遊戯、真俗随逍遙。 |
この「十八祖像賛」の作製年代はよくわからないが、その評賛の内容を考察してみると、智旭晩年の述作であろうと思われる。しかし、彼が三十四歳のときの著作に示された十六名の祖師と比べると、わずかに朱士行と金剛智とが増加しているだけであり、このことは十八祖に対する評賛の内容を研究する上で、注意すべきことであろう。また西土の三尊者の順序も、智旭三十二歳の文献とは異なっており、これは彼の思想が成熟したことを示す一つの証拠となろう。ところで、十八祖選出の理由について、智旭は「毎事止宗一人(7)」と語っているが、必ずしもすべてが智旭の教学思想に関連するものではない。この十八祖の数を決定するのは、十八尊者または十八羅漢の影響であり、彼が三十四歳のときに十六祖を選定したのは、十六尊者または十六羅漢の影響である。また徳清(一五四六ー一六二三)の『夢遊集』巻第三十四に、「十八尊者賛」と「十六尊者応真図賛」があるので(8)、これらによって、智旭は十八祖の像賛を作成したものと思われる。
この十八祖の評賛にあらわれた智旭の思想内容は、以上の考察によって、次の五項にまとめることができる。
- 不立文字ヘの反論
智旭が禅宗の不立文字に強力に反対する立場をとっていたことは明らかである。たとえば、摩訶迦葉が禅宗の印度初祖であるとしても、三蔵教典を結集する彼の任務の方を重くみており、経典を離れれば魔説におちる恐れがあるからこそ、東土の初祖達磨と五祖弘忍ほ、それぞれ『楞伽経』と『金剛般若経』をもって、心に印していたのではないかと、智旭は主張している。実際、禅宗は五派に分派してから、長い間離言の宗と依言の教との間で論争が続いていたのである。
- 禅・教・律の併重
智旭が禅・教・律の三者を併せて重視することは、次のような内容を意図する。すなわち、戒律を守ることによって、仏身を守り、さらに僧団の生活規則によって正法を実践し、また高揚していくということである。したがって、戒律があれば、仏法僧の存続ができる。これは、浄土教の慧遠、華厳第四祖の澄観、『宗鏡録』の集成者延寿、ないし明末の雲棲祩宏、達観真可等いずれも戒律厳守であったではないかというのである。
- 性相融会
智旭が性相融会を主張するところは、無差別の法界は法性であり、有差別の法界は法相であり、もし円融の法界に悟入すると、有差別卽無差別、性と相を二つに分けることはないはずであるというのである。それ故、清涼澄観の『華厳経随疏演義鈔』には、禅典および法相宗の『成唯識論』などがよく引用されている。しかも、『宗鏡録』を編成した永明延寿は、禅・天台・華厳・法相を一括した性相融会論の集大成者であるので、智旭は彼に対しては、「吾師」という呼びかけで、その崇敬の志を捧げているのである。
- 円頓密教
従前の中国の仏教学者には、密教の典籍を読まずかつ触れない態度を示すものが多いが、智旭はすべての密典を閲読して、これを円頓に判属している。しかも、それだけでなく「顕或可擬議、密更難仰鑽」という讃詞を金剛智に与えている点を考えると、彼は顕教よりも密教の方に広大甚深さを感じていたのであろう。
- 念仏最上
智旭が浄土教の念仏法門を一切の法門の上におくのは次のような観点に基づくものであろう。天台止観は円頓法門であるが、念仏三昧は円頓法中の王三昧であるから、たとえ天台止観がなくても、念仏さえあればよい。これこそ一切法門の肝要であるというのである。これを智旭の仏教信仰の最終結着点と見るべきであろう。