明末中國佛教の研究 132

第二節 智旭の伝記

一 智 旭 略 傳


智旭は江南出身の人であるが、その生存年代は、明末の神宗帝万暦二十七(一五九九)己亥の年から永明王永暦九年、すなわち、満清の世祖順治十二(一六五五)乙亥の年までの五十六年間である。智旭が生れる十六年前、北方にはすでに女真部の満洲人政権ができており、智旭十八歳の年、すなわち、清太祖天命元年(一六一六)には、満清王朝の先期である「後金」が、女真部の後に興っていた。智旭はそののち清の太宗帝(一六二七ー一六四三)の時代を経て、世祖の順治十二年(一六五五)に歿するのであるが、実に智旭四十五歳の年、すなわち、順治元年(一六四四)に朱氏王朝の明朝正統は全く滅びさった。この明朝滅亡と清朝勃興の前後数十年間の中国は、辺患・流寇・饑饉・及び諸王の乱立によって、極端な混乱・恐慌の局面が展開した時であった。日本の歴史と対照してみると、ちようど戦国時代の終り頃から江戸時代(一六〇三ー一八六七)の初期にあたる。(図一)

このために民心は浮動して、宗教信仰の必要性が全国的に叫ばれた。ことに明末の祩宏・真可・徳清・伝燈等の活動によって、浄土念仏が盛行し、ほとんど明末仏教の代表的な位置についたのである。智旭もまたこの時代の仏教の傾向にしたがって、浄土念仏を彼の信仰の中心となした。そこで、智旭と上述の四人との年代を考察すると、ちょうど、智旭が彼ら四人の後継者に位置され、これは次のような表によって説明し得る。(図二)