智旭においても政治関係のことは、一切触れられていない。また智旭と同時代の著名な仏教者も智旭について述べることは案外に少なかった。これは智旭の仏教内部に対する批判的態度が極めて厳しかったので、彼の存在に対して、同時代の仏教者ないし清初各宗の仏教者は、智旭について記述することをむしろ忌避したことに起因するといっても過言ではないと思われる。
智旭の祖先は、もと汴梁地方の一族であったという。汴梁とは河南省開封県の古地名であり、後に南方の江蘇省に遷移していた。智旭の出生地は、江蘇省太湖の北浜に近いところにある木瀆鎮であった。この地方は、昔の呉の国であったところから、「古呉」と称されている。智旭の記述の中には、家族について説くところは極めて少ないが、判明したところを列挙すれば、①父親は鍾之鳳、字は岐仲という。②母親は金大蓮である。智旭は数多い願文に父母の名を挙げ、修行の功徳を父母の菩提に回向することが極めて多いが、父母の生涯に関することは一切語っていない。ただ智旭の文献は、智旭が生れた時、すでに両親は四十歳であったという。また智旭二十歳の折に父が喪し、二十八歳で母を亡くしている。③叔父の名は知られないが、彼が出家する直前に彼の叔父と話したことは事実である。④舅(8)父金赤城(8)という人は智旭の母方のおじであり、これに関しては、智旭自ら語ったところが三箇所ある(9)。彼は州府程度の地方官であり、智旭が二十六歳になった時には、この舅父はすでになくなってしまっていたものと思われる。
1 『八十八祖道影伝賛』附録高承埏撰「祩宏伝」及び「真可伝」。\卍続一四巻五〇〇頁Bおよび五〇一頁C
2 同上の「徳清伝」。\卍続一四七巻五〇二頁C
3 同上。『大蔵経』とは多分明版の北蔵であると思われる。
4 『憨山大師夢遊全集』巻二十一徳清撰「贈無尽上人授僧録覚義住持平陽浄土禅院序」。\卍続一二七巻二五四頁B
5 『錦江禅燈』巻九の「燕京大千仏寺徧融真円禅師伝」。\卍続一四五巻三〇七頁BーC
6 『宗統編年』巻三十。\卍続一四七巻二二六頁C
7 『宗統編年』巻三十。\卍続一四七巻二二八B頁ーC
8 「将出家与叔氏言別」に、「世変不可測、此心千古然。無限他山意、丁寧不在言」といっている。\宗論一〇ノ一巻一頁