自序
中国仏教においては、古来教学としての学派はあっても、教団としての宗派は存在しなかったと常に言われているが、筆者も、この点については確かにそうであったと思う。特に唐末以降の中国仏教の情勢は、禅宗が大いに隆興し、不立文字を言う祖師禅あるいは公安禅が発展した。それにともなって、一方では教学研究の義学沙門の人才が急激に減っていった。為に天台・華厳・唯識の三宗にとっては長期の暗黒時代に入ったのである。その後、歴史上たまたま義学の沙門が出現することはあっても、それはほとんど禅寺出身の僧侶であり、明末に至るまでの中国仏教は実に禅宗中心の仏教であったというべきである。
明末の蕅益智旭(一五九九ー一六五五)は伝統的な禅僧ではないが、彼は禅僧によって剃度出家し、かつ薄情の道によって仏教思想の展開を覚り、その一生を仏教生活の実践に尽した。しかし智旭に対するこのような見解は、従来語られた一般的な見解ではない。小論において、筆者が智旭の著述を網羅的、総合的に研究した結果はじめて得た、いわば結論なのである。