明末中國佛教の研究 3

第一章 智旭の時代背景

第一節 政治・社会的連関

一 明王朝末期の衰乱


中国の政治史上、庶民から身を起して帝位に登った人は、漢の高祖劉邦の後には、ただ一人、明の太祖朱元埠のみである。太祖は、かって仏寺において僧侶の生活を体験したといわれるが、彼の政治方策について見ると、仏教精神はあまり役にたっていないようである。彼によって建立された明王朝二百九十四年間は、概して、ただ蒙古族の統治を漢人自身の統治にかえたのみで、国と民衆に対して、寄与するところは僅少といわざるをえない。また、太祖の開国から南明三王の亡国に至るまでの十九帝の中で、太祖を除き英主とたたえられる資格を持ち得るのは、第三代目の成祖(一四〇三ー一四二四)と九代目の孝宗(一四八八ー一五〇五)のみで、この二帝の時代が比較的に平穏な時代であったといわれる。武宗(一五〇六ー一五二一)は宦官の劉瑾を信任し、続く世宗(一五二二ー一五六六)も、宦官厳嵩を信頼した。よって世宗は二十有余年にわたり、朝政を問わなかったといわれ、厳嵩は政治の権力を恣にしたといわれる。また神宗(一五七三ー一一六一九)も二十余年もの間朝政を顧みず、