明末中國佛教の研究 4

さらに喜宗(一六二一ー一六二七)もまた魏忠賢と客氏を寵愛するなどして、政治腐敗を招いた。このように君主無能のために招来された危機は、明王朝に次々と興ったのである。成祖の永楽年間には、安南と朝鮮は明朝に臣服している。また成祖自からも漠北に親征し、南洋に対してもしばしば三保太監鄭和を派遣していたので、当時明王朝に貢物を奉献するものは三十カ国にも達した。しかしながら、武宗の時に至ると、安化王および寧王朱宸濠の内乱が相い継いで起り、世宗の時には、倭寇が浙江を侵し、北方に威勢を振った諸達(イオータ・タタール)のアルタは、しばしば中国内地の大同・哈蜜・山西・寧夏ないし北京を包囲したのである。また、南方の沿海地区の浙江・舟山・南京・鳳凰城・興化等においては、海上からの倭冦の擾乱が絶えず、遂に神宗の万暦年間(一五七三ー一六一九)から十二年目の一五八三年には、北方満州族の女真部が生れたのである。今、これを日本史と対照すれば、ちょうど日本の戦国時代にあたり、この時代の中国と日本とは、不安と動乱の態勢を共有していたといえる。また世界史的観点に立てば、西洋文明の東漸のきざしがみえはじめた時代でもあったのである。

明末の政府官吏について、一口にいえば、文官の「無能」と武将の「無節」ということに尽きる。明代に文官登用の科挙制度が、大学・中庸・論語・孟子の四書を以て、易経・書経・詩経・礼記・春秋の五経の義を解説する風潮になってから、試巻の文体と文義の両者を同一規律の模楷に則るようになった。これを八股というが、これでは試に応ずる受験生にとって、自分自身の思想や学問の必要性は少なくなる。この点について、顧炎武(一六一三ー一六八二)は『日知録』巻第十六、「擬題」において、次のように批判している。

愚以爲、八股之害、等於(秦始皇之)焚書、而敗壞人材、有甚於咸陽之郊。(台湾世界書局印行『日知録集釈』三八六 ―三八七頁)