智旭の二十代頃にも、雲棲寺で水陸道場の法要に参与したと言おれている(3)。

これによって判るのは、明初に規制された三分の寺院とその僧侶の性質は、明末に至る頃は、もはや事実上存在していなかったということである。祩宏は彼の『竹窗二筆』に、嘆息しながら、次のように述べている。

禅・講・律、古號三宗、學者所居之寺、所服之衣、亦各區別。如吾郡則、浄慈・虎跑・鐵佛、禪寺也。三天竺・靈隠・普福等、講寺也。昭慶・靈芝・菩提・六通等、律寺也。衣則、禪着褐色、講者藍色、律者黒色也、予初出家、猶見三色衣、今則均成黒色矣。諸禪・律寺、均作講所矣。(中華民国四十七年台湾印経処印行『竹窗随筆』一〇〇頁)

この記述から、祩宏が三十三歳(一五六六)で出家する頃には、まだ禪・講・律の三分類している寺院があり、その僧侶もそれぞれ区別されていて、禪僧の衣は褐色、講僧の衣は藍色、律僧の衣は黒色であった。しかし、彼の晩年に至る頃は、三類の寺院は共に講所になっており、あらゆる僧侶の衣はみな黒色になったことが知られる。

このような現象は、必ずしも悪いことではなく、明末の仏教界においては、宗派を問おずに人才が輩出した。当時の有名僧の共通点は、義学の重視と戒律の提唱であったから、寺院は共に講所となり、僧侶はみな律僧の黒色衣を服するようになったのである。これを見れば、明初の禅・講・教の三等分類は、仏教の教理の区別によることではなく、当時の仏教の存在形態によるものであることがわかる。祩宏に見られた禅・講・律の三分類も、明初規制の存続と見るべきであろう。しかし、智旭はこれを改めて、禅・教・律の三分類とした。彼の三分類の根拠には、明初に規制されたような等級による意味は全くなく、明末の仏教の趨勢にしたがって、経・律・論の三蔵、および戒・定・慧の三学に合せて、禅・教・律を配置したものである(4)。このような理解に立つと、智旭の禅・教・律という分類法は、