明末中國佛教の研究 57

彼らは民間の在家人の家に混居して、妻を養なっているものもあり、さらには在家人がこれを真似して、瑜伽僧の仕事をする者もあらわれた。よって朝廷からの禁令にしたがって、俗と僧の区別を厳密に規劃して、僧侶妻帯の現象を厳しく取り締ると同時に、再び禅・講・教の分類をして、それぞれの寺に属すべきであると命じているのである。

l 印順法師著『教制教典与教学』七八頁参照。〈中華民国六十二年二月台北出版)

2 『釈氏稽古略続集』巻二に、「顕密之教、軌範科儀」と「瑜伽之教、顕密之法・」といわれている。\卍統一三三巻一二八頁B-C

3 『釈氏稽古略続集』巻二の「申明仏教榜冊」の十条制令の中に、瑜伽僧に関するものは、七条を占めているので、恐らくこの命令の主要対象は、瑜伽教僧であると考えられる。

三 祩宏・智旭における僧侶の分類


明初の僧侶三分類については、明末の雲棲祩宏が彼の『竹窗二筆』に論述しているが、彼は禅・講・教の三分類を、禅・講・律の三分類に変更している。明初の瑜伽教は、多分禅・講・律の寺に分散していたと思われる。明末の禅・講・律の寺院とその僧侶たちの区別を問わず、いずれも瑜伽僧の行をしていた。たとえば、智旭が四十八歳(一六四六)で遊歴の際臨済宗に属する金山の江天寺において、水陸の儀文を索閲している(1)。金陵宝華山の隆昌寺は、当時乃至最近に至っても、非常に有名な律寺であるが、水陸および燄口法要を盛行した(2)。雲棲祩宏は禅・浄・律を兼ねて唱導する人であったが、彼は当時流行していた『水陸儀軌』を訂正し、雲棲寺に水陸道場を設けた。