すべての経典を仏説であると信じて疑わなかった。性宗と相宗に依拠する各系統の経典のあいだに矛盾があるとは考えられないことであるが、現実には、唐の玄奘三蔵によって翻訳された法相宗の唯識思想は、如来蔵思想の真如説と、どうしても調和できない。そこで永明延寿(九〇四ー九七五)は、「心」という理念によって天台と賢首の思想、並びに性宗と相宗の主張を統一し、百巻の『宗鏡録』を編集した。これはいわゆる性相融会と諸宗融通と禅教一致の思想を表現したものである。『宗鏡録』の序によれば、
唯一真心、達之・名見道之人、昧之・號生死之始。…(中略)…剔禅宗之骨髄、標教網之紀綱。…(中略)…性相二門、是自心之體用。若具用・而失恒常之體、如無水有波。若得體・而闕妙用之門、似無波有水。且未有無波之水、曾無不濕之波。以波徹水源、水窮波末。如性窮相表、相達性原。須知體用相成、性相互顕。(大正四八巻四一六頁B)
と述べている。その内容は、性相融会思想の肝要である。ここに言う「唯一真心」とは、人生界と宇宙界の本源であり、万法の根本であり、また一切の世間法と出世間法の本体である。そして、もしこの真心の本来実際を悟れば、生死の出離ができる。もしこの真心にして迷えば、生死の始まるところである。よってこの真心は、また禅宗の骨髄であり、一切教法学問の紀綱である。この真心は、実際には我々の自己に本有または恒有のもので、仏法の作用はすなわちこの真心を説明するための方便の施設にすぎない。けれども、性宗の説は、この自我の真心の理体を説明するものであり、相宗の説は、この自我の真心の作用を説明するものである。体と用は異なっているが、実にはただ原理と現象の違いのみで、その本質は全く不可分である。たとえば、水と波は違っているが、実際には水と波の本質は、共に湿性からできたもので、その現象の作用を見ると、確かに相異しているようであるが、