商工業に従事する毘舎族(vaisya)の家主をいうが、中国にては学徳高くして仕官される人、すなわち処士と同義である。しかし、仏教にては帰仏受戒せる在家の男子を称するので、これから論述しようとするのは、仏教における明末の居士についてである。
清代の名居士である彭際清(一七四〇ー一七九六)の『居士伝』五十六巻の中に、第三十七巻から第五十三巻にわたり明代の居士伝記がある。しかも、明初と中明の居士の人数は、僅か洪武年間(一三六八ー一三九八)の宋景濂(一三一一ー一三八一)、景泰年間(一四五〇ー一四五六)の劉祖庭、正徳年間(一五〇六ー一五二一)の萬民望、および嘉靖年間(一五二二ー一五六六)の李文進の四人しかいない。その他、およそ六十七人の正伝と三十六人の附伝があるが、これらあわせて百三人は、すべて万暦年間から明亡までの間(一五七三ー一六六一)に活躍した人である。そして居士仏教の展開と明末の僧侶仏教の蘇生とは、ほぼ同様の傾向をあらわしているといえる。
明末に居士の人数が、急速に増加した原因の一つは、王陽明学派の仏教信仰に対する接近であり、もう一つは明末四大師が、三教同源説を提唱した結果であって、儒教学者および道教学者で仏教に転身した人はかなり多かった。名居士として『二通』の著者趙大洲(一五〇九ー一五八二)は、祩宏の外護者であり、また『楽邦文類序』の著者である厳敏卿は、もとより儒教学者であった。王陽明の再伝弟子に李卓吾(一五二七ー一六〇二)と焦弱侯(一五四〇ー一六二〇)があり、この二人は、明末の学術界において極めて影響力をもった学者であり、仏教界にても、智旭の『論語点晴』という儒書の註釈の際に、ほとんど李卓吾の『四書評眼』を引用しており、憨山徳清の『観老荘影響論』には、焦弱侯の『老子翼』を引用している。李卓吾の弟子に、袁宗道・衰宏道・衰中道の三兄弟がある。その中の袁宏道(一五六八ー一六一〇)の『西方合論』は、非常に著名な浄土教関係の名作である。また、