道教出身の袁了凡(一五六八ー一六一〇頃)(1)は、雲谷法会(一五〇〇ー一五七九)に参謁した後に、三教同源説に基づく『功過格』を著わしている。さらに、『指月録』の著者に瞿汝稷がある(2)。彼は嘗って曽乾亨・傅光宅・唐文献・曽鳳儀・徐琰・子立玉・呉惟明・王宇泰・袁了凡等九人と共に発願して、真可(一五四三ー一六〇三)の推進する方冊本の『径山蔵』の雕版を、全力をあげて助けた人であった。これら九人の中の曽鳳儀は、『楞厳経宗通』十巻の著者であり、王宇泰は、『成唯識論証義』(一六一三年作成)の著者王肯堂と同一の人物である。

右の如き明末の学者の中で、名書家の董元宰(其昌一五五五ー一六三六)は、真可とその弟子密蔵に参謁した名居士である。この他、蓮池祩宏の在家弟子に唐宜之があり、?益智旭の外護者に程季清がある。

銭謙益と明末四大師


また趙凡夫・王弱生・朱白民・黄子羽および『金湯徴文録』の著者姚孟長(?ー一六三二)等の名居士は、みな銭謙益(牧齋一五八二ー一六六二)の善友であるが、ただ銭謙益の伝記は、『居士伝』に記録されていない。恐らく彼は明王朝の終末から清王朝に仕えて、礼部右侍郎になり、『明史』の編集役をしたのであろうが、その歿後百年に至り、乾隆帝(一七三六ー一七九五)は銭謙益の著作を禁書にし、彼の名を清の時代にできた歴史書から一切抹消しようとしたので、この彭際清の『居士伝』でも、彼の伝記を見捨てたためであると思われる。ところが、『明史』巻第三百八、列伝一九六『奸臣列伝』の周延儒と温体仁の伝記の中に、銭謙益に関することがかなり多く記されている。

ともあれ銭謙益は、明末の有名な学者であり、彼の『列朝詩集』・『牧齋初学集』・『牧斎有学集』は、中国における文学史と文化史上の名作である。仏教に関する著作の中で、彼の晩年の作品といわれる『楞厳経疏解蒙鈔』は、非常に学術性のあるものである。彼と明末の四大師の間には相互に深い因縁があり、たとえば、