明末中國佛教の研究 10

華中・華南ないし西南各地からほとんど中国全土に及んでいる。仏教者の立場でこうした様相を思えば、衆生の業によって、このような果報を招いたことであると考えられる。そこで智旭はこれら被害者の菩提のために、しばしば礼懺を行ってその功徳を回向し、これらの中、生残れるものを苦境から救い出し、また亡者の霊を仏国浄土の蓮台に生れかわるよう祈願している。こうした礼懺を行なったにもかかわらず、かような乱世の時代であったことが幸いしたのか智旭は、いささかの政治逼害も受けることがなかった。因みに智旭の先輩長老の中には、徧融真円(一五〇五ー一五八四)、達観真可(一五四三ー一六〇三)、憨山徳清(一五四六ー一六二三)の三人が共に政治の逼害を受けており、このことについては、智旭自身の文献中にも触れられている(1)。

1 「示靖開」の法語\宗論二ノ二巻一五頁

第二節 儒教との連関


ここで儒学というのは明末の儒教の様態を指すもので、西洋からきた新宗教学と明末の仏教学の二点は、第三および第四節に後述する。

一 宋明儒学と仏教