明末中國佛教の研究 11


中国における儒教は、周秦に起り、漢唐に大いに流行した。また隋唐仏教の思想に影響を受けつつ、宋代には、仏教の如来蔵思想の常住真心を受け入れて、これと揉合して変化した。いわゆる理学という新思想がこれである。宋代理学の代表とされる人物は、『太極図説』を著わした周教頤(濂渓、一〇一七ー一〇七三)であり、彼の門人には、程顥(明道、一〇三二ー一〇八五)と程頤(伊川、一〇三三ー一一〇七)の兄弟二人があった。それから一世紀ほど後に、伊川派の中に、朱熹(晦庵、一一三〇ー一二〇〇)が現われ、明道派の中に、陸九淵(象山、一一三九ー一一九二)が現われた。また、明代に至ると、陳獻章(石斎、一四二八ー一五〇〇)の白沙派は、伊川と朱熹の学風に近づき、王守仁(陽明、一四七二ー一五二九)の姚江学派は、陸九淵の学を拡げた。ここに至って世に「程朱派」および「陸王派」という二つの主な儒教学派の確立を見るのである。

前述のように、宋明儒学が、秦漢儒教と異なるところは、儒教の学者が仏教々理のある理念を儒教へ取り入れ、消化し、新たにその教理を組織したところにある。これは中国人が中国固有の文化を大事にする余り、インドの仏教文化を取捨選択した結果であるとも言える。古代より近世にかけて、中国の政治原則とされる儒学は、六朝と隋唐にわたる五・六百年の間に、偉大な思想家を一人も生み出していない。それはインドからきた仏教文化の発展成長に伴って、儒学の方面には、退潮あるいは停滞の現象が起ったためである。この原因は何かと言えば、儒教の学問は人間の社会性について実に色々な教えと誡しめを説いているので、政治学と倫理学の見地からは、非常に優れていた。しかし、個々の人間のまちまちな悩みに対して、孔孟の教訓では適切な答えをもっていなかったのである。これに対し仏教は、人間の心を穏やかにする信仰かつ哲学思想であり、儒教の不足するところを補なうに十分な働きをした。そして一流の思想家、たとえば、天台智顗・嘉祥吉蔵・賢首法蔵・並びに玄奘と窺基などの人物は、