明末中國佛教の研究 9

(佛滅紀元二五一一西暦一九六七年台湾中國佛教會影印本『卍績藏経』一四九巻二四〇頁C)

と語っていることによっても、智旭が明末および清初の政界人物との間に、かなり関係のあることを指摘できるが、彼自身の宗教的生涯と活動に対して、必ずしもそれらの政界人物の援助を受け容れてはいない。やはり、明末の遺民としての智旭は、かような乱世の時代にあってやむなく政治への関心を捨てたのではないかと思われる。

僧侶である智旭は、社会問題の苦難・民衆の悽惨な景況に、同情心を一杯に傾注している。それは次の三つの願文の中にあらわれている。すなわち、①智旭四十四歳(一六四二年)の時の「鉄仏寺礼懺文」に

目撃時艱、倍増愴愀、斗米幾及千銭、已歎民生之苦。病死日以千計、尤驚業報之深。(宗論一ノ四巻一頁)とあり、②四十七歳(一六四五年)の時の「礼千仏告文」に

疾疫饑荒洊至、已至寒心、干戈兵革頻興、尤堪喪膽。父母妻孥莫保、骨肉身首分離。百骸潰散、誰思一性常霊。萬鬼聚號、肯信三縁自召。悠悠長夜、涙與血而倶枯。漠漠荒郊、魂與魄而奚泊。(宗論一ノ四巻六頁)

とある。さちに四十八歳(一六四六年)の時の「占察行法願文」に

又祈江南・江北・乃至震旦域内、近日遭兵難者、種々債負消除、一々怨嫌解釋、脱幽冥之劇苦、胎蓮萼以超昇。(宗論一ノ四巻一〇頁)

とあって、疾疫と饑荒によって、物価ことに米の値段は、甚しく高く、さらに戦乱のために毎日病死・戦死した人数は非常に多かったことが知られる。これら願文の年代を見ると、ちょうど明の崇禎帝の末期前後あるいは清王朝の発足したころであることが知られる。また、流寇が四処に騒擾していた頃であり、南明の諸王の競立している時期と同時代であることが知られる。当時、難をこうむった地域は、華北はもちろん、