と表明されている。これは『中庸』の「仲尼、祖述堯舜、憲章文武」という名句から引用したものであるが、智旭自身を、儒教の孔子にたとえ、真可を周朝の文王と武王にたとえ、永明延寿を中国古代の聖君の尭帝と舜帝にたとえているのである。儒教の孔子は、堯・舜・文・武を政治思想の最高理想となしたが、智旭は延寿と真可を最も理想的な師であると考えていたといってもよいであろう。

これら十八人と智旭の師承関係を図で表わすと、前頁のようになる。

1 「法派称呼弁」。\宗論五ノ三巻一一ー一三頁

2 宗論九ノ四巻一六頁及び二〇頁

3 「示蒼雲」。\宗論二ノ五巻三頁

4 宗論六ノ二巻一三頁

5 大艤元来の伝記資料は、『博山無異大禅師語録』附呉応賓撰塔銘と劉目杲撰伝。又永覚元賢撰衣鉢塔銘は、『永覚元賢禅師広録』巻十八に収めており、この三つの資料は、共に卍続蔵経巻一二五にある。

6 聞谷広印の伝記資料は、『永覚元賢禅師広録』巻十八の元賢撰塔銘、及び『初学集』巻六八の銭謙益撰塔銘がある。

7 憨山徳清の伝記資料は、『憨山大師夢遊集』附呉応賓撰塔銘、銭謙益撰塔銘。なお『顓愚語録』巻十二に観衡撰伝がある。

8 『法華経持験記』巻下参照。\卍続一三四巻四七四頁AーB

9 『浄土聖賢録』巻五。(卍続一三五巻一四九頁Aー一五〇頁A)この記載の所依資料は、同じ前項の『法華経持験記』のことであると見られる。

10 宗論八ノ三巻六頁に収めている「燃香供無尽師伯文」は、智旭三十歳(一六二八年)冬の著述であり、最初に伝燈と面謁した時は、智旭の二十五歳(一六二三年)の春で、伝燈の亡くなる年代は、すなわち一六二三ー一六二八の五年の間であるが、必ずしも安藤博士の推定する一六二七年ではないと思う。しかしながら、時代識別の便宜上、本論では、安藤博士の推定年代を利用した。

11 宗論九ノ四巻二二頁

12 雪浪洪恩の伝記資料は、徳清『憨山大師夢遊集』巻三十の「雪浪恩公伝」、銭謙益『初学集』巻六九の「塔銘」、鄒迪光『宝華山志』巻七の「塔銘」にある。

13 新城寿昌無明慧経は、元来と元賢の二人の嗣法の師であり、彼の伝記資料は、徳清『夢遊集』巻二十八の「塔銘」、『無明慧経禅師語録』附元賢撰「行業記」にある。

14 宝慶五台庵顓愚観衡の伝記については、陳垣『釈氏疑年録』三八七頁に、『賢首伝燈録』上及び『語録』附正印撰「行状」、熊文挙撰「塔銘」、また智旭撰「爪髪塔銘」を紹介するけれども、