明末中國佛教の研究 103

教傍観正である。このような教観並重の学風によって、説食数宝の愆をなくし、また暗証無聞の禅病をも越していると評価している(6)。

牛頭法融


牛頭法融(五九四ー六五七)は、智旭の私淑者中には挙げていない。しかし、永明延寿の『宗鏡録』は、法融の思想を甚だ重視しており、しかも智旭自身が、四十六歳から五十二歳までの間(一六四四ー一六五〇)に、六回にわたって南京の牛頭山に卓錫しているので、法融に対する論評には、頗る慕う気持があらわれていると考えられる。智旭から見た法融の風格は、「不渉擬議思量、不離語言文字」というものであるが、智旭自身もこのような禅風を好んでおり、したがって、彼は「昔年融師会裏、或曽焼火掃地」と考えていた(7)。のみならず智旭が先輩祖師の像賛を作ったのは、僅か十題のみであるのに、法融の像賛がこの中に見えており(8)、、その他の九題は、布袋和尚契此・寒山と拾得・達磨・知礼・真可・徳清・洪恩・祩宏・元来であることからも彼の法融を慕う気持が窺われる。

大鑒慧能


禅宗の第六祖慧能(六三八ー七一三)に対しては、慧能は第五祖弘忍より衣鉢真伝の法を受けたのちも、なお具足戒を稟受していた(9)が、これは禅宗の祖師でも必らず戒律を守るべきであるという証拠であり、また禅宗の初祖達磨と第六祖慧能らの諸祖は、いずれも仏説の言教をもって心に印していた(10)が、これは禅教一致の証拠であると述べている。

荊渓湛然


天台宗の第六祖湛然(七一一ー七八二)に対して、『法華玄義釈籤』・『法華文句妙楽記』・『摩訶止観輔行』の三書は、誠に仏祖の慧命、衆生の眼目なり(11)と称讃しているが、しかし『妙楽記』に対して、「微かに六朝の風気がある」から、「稍や時機に背く」(12)という反論も見られる。

永明延寿


禅宗法眼系の出身で、