四明知礼
趙宋の天台教学の中興者とされる四明知礼(九六〇ー一〇二八)に対し、智旭が敬意を傾けるのは、天台教観のためではなく、知礼の浄土教に関する著作『観無量寿経疏妙宗鈔』の故である。三十三歳の時の智旭は、祩宏の浄土思想に傾倒していたが、後に祩宏の『弥陀疏鈔』に・いくつか賛同できないところが生じてから(15)、これにかえて知礼の『妙宗鈔』を重視していた。このことは次の六点の資料からも知られる。
- 「復浄禅」の書簡に、
恐妙宗鈔一書、尚未窮研、乞勧細細尋繹。(宗論五ノ一巻二三頁) - 「与周洗心」の書簡に、
浄土的旨、全在妙宗一書。(宗論五ノ一巻二五頁) - 「寄丁蓮侶」の書簡に、
須將妙宗鈔及西方合論二書、深玩熟思、庶可破邪計耳。(宗論五ノ二巻六頁) - 「復唐宜之」の書簡に、
妙宗鈔一書、不可動一字。……(中略)….. 妙宗鈔姑與人結圓頓種。(宗論五 ノ二巻一〇頁) - 「念仏卽禅観論」に、
文殊般若経・般舟三昧経・観無量壽佛経等、皆明此圓頓了義、而妙宗鈔、申之為詳 。(宗論五ノ三巻九頁) - 「浄信堂初集」に、
梵網一經、不可不流通。妙宗鈔一書、不可不處處講演。(六巻七八頁)(16)
これらの資料を見ても、智旭の浄土思想は、知礼の『妙宗鈔』を中心としていることが明らかである。『妙宗鈔』は、知礼の六十二歳(一〇二一年)の時代に製作したもので、主として智顗の『観経疏』の講義註釈であり、「約心観仏」・「蛣蜣六卽」という説をもって有名である。
ここで、『妙宗鈔』の詮顕するところを要約していえば、「卽心念仏」の一語につきる。すなわち、『観経』一部に明かす観仏三昧にして約心観仏と同意である(17)。これを天台智顗の『観経疏』と比較すれば、その特徴は、『妙宗鈔』において、『起信論』の「覚義」をもって「約心観仏」と「一心三観」の心体と解釈している点(18)である。この点において、智旭の「現前一念心」という理念に、よく相似するので、智旭はこの『妙宗鈔』を浄土諸書の中から摘出して、最も重要な浄土教の著作と推挙しているのである。
雲棲祩宏
雲棲祩宏(一五三五ー一六一五)に対しては、智旭は讃頌している点もあるし、批評している点もある。まず、讃頌している点について、次のような資料を掲げたい。
- 「十八祖像賛」に、
専修浄土、敦尚戒律、不拈機縁、不稱方丈、不崇殿閣、不侈衣食、平易老實、力挽浮風。(宗論九ノ四巻一三頁) - 「雲棲和尚像賛」に、
慈心済物、梵行明功。追踪往哲、啓廸群蒙。彌陀一句、横亘豎充。禅關把定、永鎮魔風。(宗論九ノ三巻一二頁)
ここに見られる讃頌は祩宏が浄土行の専修者であるばかりでなく、また戒律・教学・禅にも全て優れた人であり、そのうえ僧団の内面に対しては、拈機縁・称方丈・崇殿閣・侈衣食などの乱れた風習を矯正し、一般的民衆に対しては、各種の福祉事業にも全力をあげてとりくんだからであろう。
一方、祩宏は禅宗の智徹禅師の発案した「参究」の説を浄土教に引き入れて、強力に浄土も参究を必要とすると主張した(19)。これに対して智旭は、「浄土之禅、本不須参究」(20)と反論した。そのうえ、祩宏の念仏が称名の事持と体究の理持の二つに分割することに対しては、円解に合致しないと甚だ不満の意を明示している(21)。
また祩宏の『梵網菩薩戒経義疏発隠』に対して、智旭は次のように論評している。
我蓮池和尚、始從而為之發隠、此其救時苦心、誠為不可思議。特以専弘浄土、律學稍疏、故於義疏、仍多闕疑之處。(「梵網経合註縁起」。\卍続六〇巻三一〇頁A)
すなわち、智旭から見た祩宏は、禅・教・律の全てを兼修していたが、彼の専門はやはり浄土教であるので、『梵網経義疏発隠』を作っているにもかかわらず、なお多数の疑問点が解明されていない。それ故、批評を加えたのである。
達観真可
紫相大師と延寿智覚の二人とも、智旭の理想の師であるから、真可(一五四三ー一六〇三)に対しては、智旭はかなり尊敬の意を現わしている。たとえば、彼が四十六歳の時に製成した「贈石淙掩関礼懺占輪相序」の中に、
近代傳孔・顔心法者、惟陽明先生一人。傳佛・祖心法者、惟紫柏大師一人。旭生也晩、習儒時、不得親炙陽明、