明末中國佛教の研究 107

後學佛、不得躬承紫柏。(宗論六ノ三巻一一頁)

とある通り、智旭は少年儒教者の出身であり、後に仏教者になった人である。智旭が最も推挙する明代の学者としては、儒教者として王陽明、仏教者としては達観真可であるが、残念ながら智旭の出世が遅れたので、この二人の学者に直接受教することはできなかったと述べている。また、智旭五十四歳の時に著わした「白法老尊宿八十寿序」に、真可のことについて次のように記している。

予毎謂、紫柏大師、重繼永明芳軌、宗説倶通、解行具足。撤性相之藩籬、指歸一轍。懲禪講之流弊、導使尋源。……(中略)……今天下宗主、能如紫柏之徹法源底乎。今天下法主、能如紫柏之會通差別乎。今天下律主、能如紫柏之頭陀勝行乎。(宗論八ノ二巻一四頁)

ここで智旭は真可を再び永明延寿と併せて論じており、仏教史上、無条件に尊敬する人物としては、宋初の延寿および明末の真可だけであるという。そして、この二人は、真に禅と教に倶通し、理解と実践とを具え、性宗と相宗との垣根を排除して、一つの心性の軌轍へと導いていくという。しかも、明末の仏教界においては、あらゆる習禅者の宗主、教学者の法主、それとともに持律者の律主でもあって、どのように優れた人であっても、真可に比べれば及ばないであろうと、智旭は断定している。

雪浪洪恩


南京宝華山の雪浪洪恩(一五四五ー一六〇八)に対する智旭の論評は、「慈恩再来」であるといっている(22)。智旭のいう「慈恩」は、玄奘三蔵のことであるが、慈恩唯識の教学に対する宣伝の功徳をもってしても洪恩は、玄奘の再来のような人物であると、智旭は讃歎している(23)。他になお次の二例が掲げられる。

とある。ここに示されている雪浪洪恩は、傑出した法師である。南京の大報恩寺において、彼と徳清の二人は共に、神宗帝の万暦年間(一五七三ー一六一九)の高僧といわれているが、もし禅師の寿昌無明慧経、律師の大会・示権と合せていうならば、洪恩は法師の代表者である。智旭はここにおいてもまた、紫柏真可を「学滝三蔵、果証無生」と讃歎して、徳清・洪恩・慧経等の人物に比べると、真可だけは最も完璧な高僧であると見ている。したがって、洪恩に対する智旭の敬意は全てではなく、彼の「自像賛」第二十四首には、

慕雪浪之力掃葛藤、不肯學其一味軽忽。(宗論九ノ四巻二二頁)

と述べている。洪恩のよいところは、性相会通と禅律深知であり、彼のわるいところは、「一味の軽忽」であったという。智旭の述作にあらわれた洪恩は、明末の高僧としてかなりの影響力をもっていたが、今日では、洪恩の著作は一つも見出されてはいない。ただし、玉渓菩提庵聖行の著『叙高原大師相宗八要解』には、雪浪洪恩が大蔵の中から相宗関係の八書を録出したものがあり、それが『相宗八要』であると記載されている(24)。恐らく智旭の『相宗八要直解』の底本はこれであろう。

憨山徳清


智旭は徳清(一五四六ー一六二三)に一度も面謁していないにもかかわらず、