明末中國佛教の研究 109

後に彼の剃度師となる雪嶺峻師の仲介で、徳清との間に書簡を往復している。また智旭の夢の中に、徳清の姿が三度も現われて、彼を接引したといわれ、遂に智旭は徳清の再伝弟子、いわゆる法属になったのである(25)。

智旭から見た徳清の風格は、次のようである。

予謂師、宗不宗、教不教。憂在法門、禍福寧計。掣雷奔雷、徳山・臨済。密用潜行、圜中海際。知之者、謂是隻手擎天、不知者、謂是英雄欺世。誰知其甘處於非宗非教之間、不與世流同逝。(「憨山師翁清大師像賛」\宗論九ノ三巻一一ー一二頁)

徳清は厳密に言うと、当時の禅宗の人ではなく、天台・華厳。法相の三宗のいずれにも属さない。ただ一人の仏教の護持者または「非宗非教」の実践者であるが、その接衆教化の厳しさと決意は、禅宗の臨済義玄(?ー八六七)及び徳山宣鑒(七八二ー八六五)に比較されるという。しかし、彼を熟知しないものは、徳清の風格を英雄のそれと見ている。智旭としては、徳清自ら語った「老朽未閲律部、於諸戒相、実未細詳」ということに注目しており(26)、恐らく智旭は、徳清の法属であることを承認していたが、禅・教・律、ないし性相融会の教学思想については、徳清の私淑者とは認めなかったのであろう。

無明彗経


無明慧経(一五四八ー一六一八)は曹洞宗の第三十一代といわれているが(27)、智旭が参謁した大艤元来(一五七五ー一六三〇)および書簡を往復した永覚元賢(28)(一五七八ー一六五七)の二人は、共に慧経の法嗣である。智旭が尊敬した当時の禅者としては、この三人だけである。慧経に対する論評は、厳正な禅宗の宗師であるが、大いに教と律とを研究する(29)と同時に、浄土教の念仏信仰の真面目な実践者であることにつきる。ことに、慧経の主張する「念仏心卽是仏」という説は、智旭の現前一念心(30)の説に非常に似ている。つまり、智旭は慧経を欣慕していたと見られる。