明末中國佛教の研究 110

無尽伝燈


智旭は二十五歳の春、天台山で幽渓尊者無尽伝燈(一五五四ー一六二七)に参謁した。しかし、その時は伝燈に対して、半信半疑の態度をもっていた(31)。その後、伝燈がなくなってから、智旭はいくつかの讃詞を捧げていた(32)が、そのうちに伝燈を非難するようになった。たとえば「自像賛」の二十四首に、

慕幽渓之中興臺観、不肯學其単守一橛。(宗論九ノ四巻二二頁)

と、伝燈が確かに明末の傑出した天台学者であると認めながら、その天台宗の門庭限界を固守することに対して、智旭としては従うことができない。さらに、「壇中十問十答」の第十問答中の、伝燈の「一界現時、九界冥伏」という見解に対して、智旭は「冥伏とは随具の義であるかも知れない。すなわち、斉彰の義と同じであるが、但だ未だ意円にして語滞ることを免れず」と批判している(33)。その原因は、智旭が『梵網経玄義』に、「一界既現、九界同彰」(34)と主張していたからであろうと思われる。その上、伝燈の『楞厳経円通疏』にも、「殊不満人意」(35)と論評している。これは、伝燈が天台宗の立脚点から『楞厳経』を疏釈しているのに対し、智旭は『唯識論』を援引して『楞厳経』を解明し、それによって性相融会の目的を達成せんとするのであって、ここに両者の立場の相違が、明らかに見られる。

袁宏道


袁宏道(一五六八ー一六一〇)は明末の公安派の文学者であるが、実に浄土教の念仏法門を鼓吹する大居士でもある(36)。彼の『西方合論』に対して智旭は、何回も繰り返して紹介している。

とある。この三つの文献に見られるところは、智旭が浄土思想として、四明知礼の『妙宗鈔』を最も重要な著作として認定し、次に袁宏道の『西方合論』を浄土要典の二番目と評価していることである。そして智旭の理解した『西方合論』は、全く真実の悟門から流れてきたもので、一字たりとも古人の学説を踏襲したものはなく、また決して自らの恣意によるものでもない。袁宏道は天台教観の深義をよく理解してはいないが、禅機に透徹し、しかも李通玄(六三五ー七三〇)及び澄観(七三八ー八三九)の思想に融貫していたので、智旭は袁宏道を明代の唯一の居士であると絶讃したのである(37)。

大艤元来


博山無異大艤元来(一五七五ー一六三〇)は、さきに説明したように、無明慧経の法嗣である。彼と智旭の関係は、『八不道人伝』に述ベられている。彼は「以禅治惑、以律扶衰」(38)という人物であり、また浄土教に傾心する人である。だが、智旭は元来の「浄心卽是西方土」という浄土偈に対して、「以事奪理」と誤解される恐れがあると指摘し、これを改めて「西方卽是唯心土」と主張したのである(39)。

剃度師


智旭の引導者湛明師、沙弥戒の授戒者戒宗師、剃度者雪嶺師、菩薩戒の授戒者古徳師に関する伝記資料は、全く発見されていない。しかし、『霊峰宗論』からは次のことが知られる。

雪嶺峻師は、憨山徳清の弟子であり(40)、智旭二十七歳の時の一通の「寄剃度雪嶺師」の書簡が残されており(41)、