すべて仏教の宗師ばかりであって、当時、これに対する儒教には優れた人物が、一人も出なかったのである。中唐の散文家である韓愈が反仏論をしたが、その理論的基礎は、甚だ脆弱であった。

ところで、このような仏教の隆盛も長くは続かなかった。唐末の会昌年間の廃仏運動によって、義学の仏教はほとんど滅されてしまったのである。そして、残った山林仏教の禅僧達の生活は、信者の布施に頼らずに、自ら農耕の力に頼るようになり、「搬柴運水、皆是道」と現実生活を参禅の行とするに至った。また、南泉普願(七四八ー八三四)の「平常心是道」という説が、一時的にこの時代の仏教の基本姿勢となっていった。「平常心是道」の理念は、『楞伽経』の「仏心」および『文殊説般若経』の「念仏心是仏」を合揉したものであり、如来蔵の理念そのものである。宋朝の儒教学者は、このような仏教の実践精神とその信仰の在り方をもって、同時に幅広い仏典を読む中に、理学という新儒教を誕生させているのである。

明代の儒学は、もちろん宋代の儒学と異なる。明代の儒学は、宋儒を基に転換してきたものであるから、まず宋儒を紹介しなければならない。『宋史』巻第四二七「道学伝」の一に見える宋儒は、

宋中葉、周敦頤出于春陵、乃得聖賢不傳之學、作太極圖説・通書、推明陰陽五行之理、命于天而性于人者、瞭若指掌。(台湾藝文印書館『宋史』影印本五一九四頁A)

とあるようにい周敦頤の『太極図説』および『通書』が世に聞こえてから、宇宙観を「天理」、人生観を「人性」という理念にしてこれをまとめ、「性理」という哲学の本体論を造り上げた。さらに、同書の「道学伝」の一につづけて、

仁宗明道初年、程顥及弟頤實生、及長、受業周氏已、乃擴大其所聞、表章大學・中庸二篇、與論・孟並行。