明末中國佛教の研究 114


32 ①宗論四ノ一巻二頁、②宗論五ノ一巻八頁

33 『浄信堂答問』一巻一三ー一四頁

34 卍続六〇巻三〇三頁C

35 「儒釈宗伝竊議」。\宗論五ノ三巻一八頁

36

37 「西方合論序」。\『浄土十要』巻十。\卍続一〇八巻四三二頁AーB

38 「曹渓行呈無異禅師有序」。\宗論一〇ノ一巻四頁

39 「浄土偈十四首」。\宗論一〇ノ一巻六頁

40 宗論巻首二頁

41 宗論五ノ一巻二頁

四 智旭の盟友と道友


学徳を兼備した智旭は、多方面にその学徳と化縁を伸張させたけれども、その学統を継ぐべき門人は、はなはだ少数であって振わず、却って彼の友人達の方が、智旭の学風と徳化を熱心に慕っている。しかし、彼の友人は、盟友と道友の二類にわけるべきで、盟友には、四人がおり、道友にも四人ある。以下別々に紹介したい。

盟友


智旭の重要な友人の中で盟友としたのは、ただ四人であるが、この盟友とは訂盟した人という意である。訂盟は智旭二十四歳から三十一歳まで(一六二二ー一六二九)の間に行なわれたことである。この「訂盟」という風習は、もとより仏教のものではないが、廬山慧遠の念仏結社が、恐らく仏教における初めての結社であり、言いかえれば、訂盟というに当るであろう。それ以前の三国時代における劉備・関羽・張飛三人の「桃園三結義」という伝説も、また訂盟であろう。この義兄弟として結盟することの源流は、もとより宣誓にある。たとえば、二つの敵対する国の間で、一旦和平条約を結ぶ場合は、「殺牲歃血、誓於神」(1)という誓いの儀式が必要であり、