この儀式が「結盟」または訂盟ということである。しかも、元代以降の中国東南地方の文人学者の間には、「詩文結社」の流風が非常に盛行しており、当時のいわゆる「講会」・「朋党」等の組織は、全てこの訂盟結社のことである(2)。少年儒者出身の智旭も、この流風に影響されて、惺谷・帰一・雪航・璧如とそれに彼自身をあわせた五人で、一つの「毘尼社」を結社した。毘尼社という五人の盟友を結びつける理由は、戒律の復活運動のためであり、『根本薩婆多部律摂』並びに『十誦律』には、もし仏法が行なわれていない「辺地」の場合であっても、五人の持律比丘さえいるならば、戒律の伝承ができると記載している。これを根拠に、智旭はこの五人僧の「毘尼社」を結成したのである。
惺谷道寿(一五八三ー一六三一)が智旭と知り合う因縁は、智旭三十歳(一六二八)の初夏、惺谷が智旭の禅に関する著述『白牛十頌』(3)を閲して千古の盟を結びたいと思った(4)ことにその端を発する。その時の惺谷は、まだ在家の居士であり(5)、翌年の春、遂に大艤元来(一五七五ー一六三〇)の座下に出家の相を現じ(6)、その年の初夏に至って、ようやく智旭と正式に盟友となった。智旭にとって、惺谷は非常に得難い善友であり、智旭もまた真心をこめて惺谷に対していた。たとえば、惺谷が病を得た際に、智旭は自らの股から肉を切り取って、惺谷に食せしめたということが、智旭の文献に見られることからも察せられる(7)。これは中国古来の「人肉可療羸疾」という伝説による民間信仰であり(8)、智旭もこの伝説の信仰にしたがって、心友である惺谷に自身の股の肉を与えたのである。しかし、人肉による療法のかいもなく、惺谷は遂に歿した。これは智旭三十三歳の時の事件である。悲しみのうちに智旭は、惺谷の輓詩を作ったり、伝記を著わしたり、また悼念の言葉を書いたりしている(9)。
帰一受籌の生歿年代とその伝記資料はよくわからないが、彼は幽渓伝燈の弟子であり、智旭と彼が初めて会ったのは、智旭二十四歳(一六二二)の冬であるが(10)、盟友には考えられなかった。智旭が三十歳にして再び帰一と遇った時、