初めて互いに心の琴線が触れ合い(11)、それから帰一の影響で智旭は真剣に天台教観を崇敬するようになり、それとともに幽渓伝燈に対しては、法の伯父という意味で「師伯」という敬称を捧げた(12)。
また、帰一は智旭とともに戒律を精査して、ともに西湖寺を創建して十数人の同志を糾合し、戒律の復活運動に力を注いたが、まもなく帰一はこの戒律の復活運動から手を引いてしまった。これについて、智旭はその文集『絶餘編』の序および巻第三の「復智竜書」の中で、このことを説明している。これは智旭の三十七歳の仲秋のできごとである(13)。
雪航智檝の伝記資料も不明であるが、智旭二十四歳(一六二二)の夏、初めて杭州の雲棲寺で彼と知己となり、出世間あるいは超世俗の友情を結んでいる(14)。それ故、彼は恐らく祩宏系の僧であると思われる、その後再び二人が出会うのは、智旭の三十歳の春であり(15)、その時、雪航が願って智旭より戒律を学んだと伝えられている。智旭は雲棲祩宏から戒を受け、ここでは雲棲の弟子である雪航に、智旭が戒を教えている。翌年の春、さらに雪航のため、智旭は『四分戒本』を講じて血書の願文を製した(16)。とにかく、その頃の智旭は戒律学に熱意を傾けていたのであり、雪航もまた律学の僧であると思われる。
璧如廣鎬(一五八〇ー一六三一)は雲棲の法系で、かって幽渓伝燈に奉仕していた人である(17)。智旭と知り合った因縁は、智旭三十一歳(一六二九)の春、智旭が帰一・惺谷と共に博山へいった時、壁如は大艤元来の座下に参じていたことから、智旭と知り合うようになった(18)。増上縁としては、璧如は居士時代から帰一の友人であったし、また互いに仏法に対する見解と念願がよく似ていたので、智旭の戒律の復活運動に対して共鳴した。そこで帰一と共に智旭の『毘尼事義集要』の手伝いをした(19)。帰一は跋文を作り(20)、璧如は商確参訂の役を務めた。そればかりでなく、