智旭の『閲蔵知津』に対しても、璧如の協力があった。これについて『閲蔵知津』の序に、智旭は次のように記している。
旭以年三十時、發心閲藏、次年晤璧如鎬兄於博山、諄諄以義類詮次為嘱。於是毎展藏時、随閲随録。(日本天明二年刻版の『閲蔵知津』序の二頁)
「義類詮次」とは、蔵経の経義によって分類と詮釈の順序づけをすることであり、日本の縮刷大蔵経の編目は、智旭の『閲蔵知津』によるものである。したがって、『閲蔵知津』の組織形態の完成に功献したのは、この璧如であったといえる。しかしながら、残念なことに智旭三十三歳の年、璧如と惺谷は相継いで亡くなっている。
道友
智旭と訂盟はしていないけれども、非常に重要な意味をもつ道友には、また次の四人がある。如是道昉(一五八八ー一六三九)はもとより惺谷道寿の心友である(21)が、後に惺谷の弟子になった(22)。彼は大艤元來の戒、幽渓伝燈の天台教観を伝承した人で、また永明延寿の「有禅有浄土、猶如戴角虎」という遺訓を慕った人である(23)。智旭に対する如是は、道友よりむしろ師に対すると同様の敬意をもち智旭の思想に対しては深く傾聴した。このように如是にとっても智旭は得難い益友であったと思われる。たとえば、智旭三十九歳(一六三七)の折、安徽省九華山に隠居する時、如是はわざわざ遠く福建省泉州地方から来訪し、『梵網経』の講義を請い求めた。智旭はこの因縁によって、初めて『梵網経玄義』と『梵網経合註』を作成した(24)。智旭の思想的著作は、ここにはじまるのである。なお智旭の思想に関する最も重要な述作『大仏頂首楞厳経玄義』とその『文句』の完成も、如是の要請で智旭四十一歳の時にできたのである(25)。そして、如是は智旭のこの『梵網』と『楞厳』の二経の註釈書に対して「参訂」の役を勤めている。その他、三十七歳の時に作成した『盂蘭盆新疏』の参訂者も如是である。三十七歳から四十一歳まで(一六三五ー一六三九)の間の智旭は、ちょうど戒律学より教学思想にその傾向を変化させる時期であって、