智旭にとって如是道昉が如何に重要な道友であったかということは、容易に想像できるであろう。
影渠清沼(一五八七ー一六四一)と霊隠道山永闐(一五七九ー一六四二)の二人に関する智旭の文献は五つある(26)。この二人は共に古徳法師の教学、抱璞大蓮(?ー一六二九)の禅を受けついだ人であるが、智旭は三十七歳の春、初めてこの二人と知り合い、二人に『法華玄義』と『摩訶止観』の閲読を勧めた。これによって、二人は初めて天台宗の円頓法門が禅宗の直指人心と見性成仏の単伝正印に少しも異ならないことを知ったのである。換言すると、智旭の指導に基づいて、この二人は天台宗の教観を習得したのである。したがって、この二人の智旭に対する友情は深く、道友というよりもむしろ師匠のようなものであったろう。その年の冬、智旭が重病にかかった時は、この二人の全心全力の看病のおかげで平癒している。つまり、智旭の思想に対するこの二人の影響は、なさそうであるが、逆に智旭の生涯からみるならば、二人は弟子のような道友であったといえよう。
智旭の著述中に見られる新伊大真(一五八〇ー一六五〇)に関する資料は五つある(27)。その中、祝寿文が二つ、祭文・伝記・著作の序文が一つづつであるが、一人に対して二回の祝寿文を作ったのは、智旭において異例のことである。これは彼と智旭の友情はもちろん、交際の期間もまた一つの原因であると思う。さきに紹介した智旭の盟友または道友と智旭との交際期間が、十年以上に及ぶということは例がなかったが、実に大真との交友は、智旭二十四歳から五十二歳に至るまで親しくつづいた。また、もう一つの原因は、大真の学統とその思想が智旭に近似していることであろう。彼は雲棲祩宏の法孫で、蓮居庵の紹覚広承の剃度の弟子である。後に法相宗と天台宗の教学を学び、また惺谷道寿の禪・帰一受籌と達月管正の教・蕅益智旭の律・璧如広鎬の儒学をそれぞれ習しているのであるが、最も智旭の関心を引いたのは、大真の唯識研究に関する『成唯識論遺音合響』(28)であり、