于是上自帝王傳心之奥、下至初學入徳之門、融會貫通、無復餘蘊。(台湾藝文印書館『宋史』影印本五一九四頁A)

と述べられている。この、程氏の兄弟は二人とも周濂渓の門下生であり、しかも『中庸』と『大学』の二書に『論語』と『孟子』の二書を加えて四書という名称で、思想界に推荐させた。それは、『中庸』と『大学』の二書に述べられている「率性」と「明徳」の説をもって「性理」という本体論を一層発展させ、いわゆる宋明理学の土台を完成しようとしたからである。ことに程頤の学風は、その後朱熹に承け継がれたが、この朱熹は当時の仏教に反論している。すなわち、『朱子語類』巻第百二十六において、

當初佛学、只是説、無存養工夫、至唐六祖、始教人存養工夫。當初學者、亦只是説、不曾就身上做工夫。至伊川、方教人就身上做工夫。

と述べ、当時仏教者の教えは、口ばかりで、生活に実践されていなかったことを指摘している。そして、禅宗の六祖慧能に至って、はじめて「存心養性」の実践が教示せられたけれども、当時の禅宗学者は、誰もこれを実践しなかったという。一方、宋儒は程伊川に至ると、まさにそれぞれ個人の生活に教えを実践することを提唱している、と宋儒の優れていることを述べている。しかしながら、朱熹のこの反仏論を考察すると、実際は程伊川の学風は、もとより禅宗の精神を踏襲しているにすぎないことをあきらかに白状している。朱熹の学風については、『宋史』の「道学伝」の一に、

迄宋南渡、新安朱熹、得程氏正傳、其學加親切焉。大抵以格物致知為先、明善誠身為要。(台湾藝文印書館『宋史』影印本五一九四頁B)

と述べられている。いわば、「格物致知」と「明善誠身」の両原則は、朱熹学説の肝要であり、換言すれば、