大真が『唯識合響』で観行と三支量を重視していることを知って、非常に喜んでいたのである。これらの理由で、智旭はほとんど三十年近く、大真と交誼をつづけたと思われるのである。
小結
以上紹介した八人のうち、初期に訂盟した惺谷・帰一・雪航・璧如の四人は、戒律中心で結社した盟友である。後期の四人のうち、如是道昉は性宗の『梵網』と『楞厳』の二経註釈の関係者であり、新伊大真は相宗の『唯識論』思想の関係者である。なお前期の帰一と後期の影渠および霊隠の三人は、天台教観思想に関する智旭の益友であった。
これら八人の年令を考察すると、霊隠は智旭より二十歳年長、璧如と大真は十九歳年長、惺谷は十六歳年長、清沼は十二歳年長、如是は十一歳年長であって、帰一と雪航の生歿年代はよくわからないが、帰一がすでに璧如の居士時代の友人である(31)点からみるならば、帰一もまた年長の人であろう。また雪航の寂年もわからない。しかし、智旭の生前に亡くなっていたことは確実である(32)。したがって、智旭の盟友と道友は、いずれもみな年長の人達であり、しかも、彼らはいずれも智旭と早々に生別または死別してしまったといえるのである。
1 『礼記』の曲礼に、「涖牲曰盟」とある。またその『疏』に、「盟者、殺牲歃血、誓於神也。」とある。
2
- 柳詒徴の『中国文化史』巻中三七五頁参照。(中華民国五十六年台湾中正書局出版)
- 明末の天啓年問(一六二一ー一六二七)に、「応社」がある。
また崇禎年間(一六二八ー一六四四)には、「復社」がある。
3 宗論九ノ三巻一ー三頁
4 「尚友録序」。\宗論六ノ一巻一〇頁
5 「弔温陵開元寺肖満師伯」。\『絶餘編』三巻二二頁
6 「璧如惺谷二友合伝」。\宗論八ノ一巻八―九頁