明末中國佛教の研究 122


31 「璧如惺谷二友合伝」。\宗論八ノ一巻六頁

32 「雪航法主像賛」があるから智旭の在世時代に彼が亡くなっ たことは確実である。\宗論九ノ三巻一三頁

五 智旭の弟子

戒律中心の盟友と弟子


三十五歳(一六三三)以前の智旭は、懸命な戒律復活の念願をもっており、五比丘同住の如律僧団を作るために、惺谷・帰一・雪航・璧如の四人と訂盟をしていた。律蔵によれば、比丘戒を受授する時には、普通は十人の清浄な比丘僧で、羯磨を行ない、初めてその戒体を伝承することができるのであるが、中国仏教の比丘戒の伝承系統は、早くから乱れていたので、明末の比丘戒(1)の伝承は、いうまでもなく正法の律とは言えなかった。そこで、智旭は律蔵にいう「辺地受戒」というやむをえない場合にとられる規定、すなわち少なくとも五人の清浄な比丘僧で、比丘戒を伝えるという規定によって、五人の比丘僧団を作ろうと思っていた。しかし、彼が三十五歳の時に、惺谷と璧如はすでに亡くなり、帰一は背盟してしまった。ために智旭は絶望のうちに、三十五歳の夏、占トによって比丘戒を捨て、残ったのは菩薩沙弥戒であった。このことについて、彼の「退戒縁起並嘱語」を見ると、次のような記述がある。

予運無數苦思、發無數弘願、用無數心力、不能使五比丘如法同住、此天定也。(宗論六ノ一巻七頁)

智旭は、戒律復活運動に全力をあげたものの、数年を経ずして結局失敗に終ったのであった。実際、釈尊時代あるいは部派仏教時代の律蔵の基準は、必ずしも中国の明末に適応できるものではない。無理なことをすれば、