失敗するのは当然であろう。
以上は盟友を集めた「毘尼結社」のことであるが、次に智旭の弟子について、智旭の著述にみられる彼自身の感想には、以下の三点の具体的な引用文がある。
- 「復陳旻昭」の書簡に、
欲傳得一人、勿令最後佛種、徒我而断、亦竟未遇其人。(宗論五ノ一巻一八頁)
- 「法華会義序」に、
予寓温陵、述綸貫也、欲誘天下學人、無不究心三大部也。屈指十餘年矣、舌敝耳聾、曾不得兩三人、正視教觀。(卍続五〇巻一八一頁A)
- 「祭了因賢弟文」に、
哀我諸子、可充一椽一柱者、相繼去世、不為我聊存一線也。(宗論八ノ三巻一二頁)
第一点は、要するに戒律学のことであり、智旭四十歳の著述である「重治毘尼事義集要序」によれば、彼が三十三歳で『毘尼事義集要』を講じた時、聴者十余人のうち、ただ徹因比丘一人だけがよく実践したという。また、三十五歳で再び『毘尼』を講じたところ、聴者九人の中、ただ徹因と自観ら三人のみがよく留心し、さらに三十六歳で三たび『毘尼』を講じたところ、聴者五・六人の中で、僅か自観と僧聚の二人がよくしたがったのみであったという(2)。師の智旭のように律学に精通し、しかも教観兼美の弟子は、一人もいなかったのである。
第二、第三点は、天台教観を伝承することである。四十歳頃の智旭は、戒律学の後継者をさがしていたのであったが、該当者を見出し得なかった。五十一歳になって、『法華会義』を作成した頃、