明末中國佛教の研究 124

弟子の中で天台教観を正しく修めている者は、二・三人もない有様であった。その大きな原因は、早期に彼に随待した弟子が、殆んど早世していたことであろう。自観・徹因・了因の三人とも智旭が五十代になる以前に既に死歿した。

智旭の弟子については、五十歳以前を前期に、五十歳以後を後期として記述したい。前期は自観・徹因・了因の三人をもって代表させ、後期には巨方・蒼暉・性旦・等慈・堅密の五人を中心とする。

前期の弟子


自観照印(一六〇二ー一六四一)は嘗って聞谷広印(一五六六ー一五三六)に参じた人である。聞谷広印は「禅教雙挙」「尸羅為閑」、しかも「雲棲為師・永明是式」(3)という人物であり、智旭も参謁した(4)明末の名徳である。したがって、自観と智旭との関係は、先後の同参道友といってもよいが、実際には自観は智旭の弟子になっている。自観がはじめて智旭に面謁したのは、智旭三十一歳の秋、南京郊外の棲霞山であり、次で智旭三十四歳の春、自観は霊峰山の智旭の「毘尼社」を訪ね、夏には智旭から具足戒を受けた。翌年、金庭山の西湖寺において、智旭が『毘尼事義集要』を講じた際は、自観は能く留心する三人の中の一人である。さらに、その翌年智旭が三回目の『毘尼事義集要』を講じた際も、自観はまたもその能く実行する二人のうちの一人であった(5)。

智旭は三十八歳(一六三六)の時に、安徽省九華山に隠遁していたが、自観は求法のために、九華山別峰の智旭のもとまで尋ねてきた。そして、智旭から『梵網経』並びに『楞厳経』の要旨を受教していた。彼は辛苦実践の決意はあるが、慧解の能力は足らないと見た智旭は、『梵網』と『楞厳』二経の要点を問答体として、彼に与えて啓発した。これがすなわち『浄信堂答問』巻第一に現存している「壇中十問十答」である。

智旭は、自観に対して「共建法幢」という使命を期待していたけれども、智旭四十三歳の年(一六四一)に、