自観は亡くなってしまうのである(6)。この時機の智旭は、比丘戒律から菩薩戒律に、さらに戒律学から性相融会の教理面に転身する頃で、自観照印はこの転換期に随身した智旭の弟子というわけである。
徹因果海の生歿年代は一切知られていない。彼は新伊大真(一五八〇ー一六五〇)剃度の弟子であり、大真の命によって智旭に随身したのである(7)。初めて智旭に面会したのは、智旭二十四歳(一六二二)の頃であるが、彼は智旭が三十歳のときに説いた『梵室偶談』の筆録者となった(8)。智旭の文献中、徹因に関係あるものは四点がある(9)。徹因の資性とそのタイプについて、智旭の文献は次のように示している。
- 「退戒縁起並嘱語」に、
根性稍鈍、僅知開遮持犯條目、未達三學一貫源委。且福相未純、智慧力薄、缺於辯才、短於學問。(宗論六ノ一巻六頁)
- 「四書蕅益解自序」に、
維時(10)。徹因比丘、相從於患難顛沛、律學頗諳、禪観未了、屢策發之、終隔一膜。爰至誠請命於佛、鬮得須籍四書、助顯第一義諦。遂力疾為指大旨、筆而置諸笥中。屈技十餘年、徹因長往矣。(宗論六ノ一巻二四頁)
とにかく徹因という人物は、聡慧ではないが、非常に誠実で、あるいは頭陀僧の型をしている人物であるかと思う。彼は禅・教・律の三学の中では、ただ戒律の開・遮・持・犯に関する条目のみを理解し、戒律と禅定および教観との連帯関係については、理解できなかった。だから、智旭が三十五歳と三十六歳の二年間、とくに困難な逆境にあったのに、徹因は終始独りで智旭に随身し尽したのであろう。そこで智旭は戒律高揚の使命を徹因に嘱望して、『毘尼事義集要』の手稿全帙を徹因に授付していたという(11)。なお、智旭の『四書蕅益解』を作成した因由も、