明末中國佛教の研究 126

徹因によるものである。徹因は禅観については、いくら修学しても入門ができない。智旭はどんなに教え啓発しても無駄に終えるので、結局占トによって、『四書』の内容をもって、彼に仏法の第一義諦の説明の補助教材としたのである。そのために、智旭は彼の独特な三教同源論に基づいて、儒教の『論語』・『中庸』・『大学』・『孟子』の順次に註釈をほどこした。しかし、これを作成後十三あるいは十四年目の智旭四十九歳(一六四七)のとき、この旧稿を補充・修正・定稿すべきときには、徹因はもはやこの世の人ではなかったのである。

了因の生歿年代は智旭の文献に直接あらわれていないが、了因に関係する著述は三点ある(12)。了因は智旭の二十四歳(一六二二)に初めて徹因と共に浙江の武林蓮居庵で、智旭と面会した。したがって、多分彼も新伊大真の剃度の弟子であり、恐らく彼はそのところで徹因と共に智旭に随身したものであろう。その後、智旭より離れ、智旭が四十九歳の時に彼は亡くなるのである。了因の人柄について智旭の論評は次の通りである。

徹因長於律學、終以不朴實而喪身。不謂汝(了因)微會入於台宗、亦終以不立志而死於房頭。(宗論八ノ三巻一二頁)

これによれば、徹因に比して、了因は天台教観をやや得意としたのであるが、立志していないので、円頓大法の門に僅かに入ったところで、悪病にかかり、末寺の坊(13)に歿したという。

後期の弟子


前期の智旭の弟子というと、以上の三人であるが、あまり優秀な人才とは云えない。後期の弟子については、智旭の著述によれば、巨方・蒼暉・等慈・性旦・用晦・堅密の六人がいる。文献としては、智旭の「大病中啓建浄社願文」(14)および成時撰『八不道人続伝』(15)がある。この「願文」は智旭が入滅する三十八日前の述作であり、実に彼最後の願文あるいは遺言といえる。その文中に「若敷文演義、自有照南・霊晟・性旦」、「若受戒学律、自有照南・等慈」とあって、成時撰『続伝』にも、照南と等慈には、五戒および菩薩戒の伝授を、