明末中國佛教の研究 127

照南・霊晟・性旦の三人には、演経説法を命じたと伝えている。つまり、この二つの文献にみられる智旭の後期の弟子は四人であり、この四人の弟子が智旭の戒律学と教学を伝承したことが知られるのであるが、事実上最も有名な弟子堅密は、なおここには数えられていない。したがって、彼の後期の弟子はあわせて五人いるはずである。

まず、さきの文献にも示されたように巨方照南は、教学と戒律を共に兼美した人であり、彼に関しては智旭の文献に、二通の「示巨方」(16)という法語がみえる。その一通は観心法要を訓示するもので、他は明末の天台宗の様相、および智旭が天台教学の見解を論評したものであって、智旭によれば、天台宗の学者が禅宗ならびに法相宗を山外背教とみて排斥したために、禅宗の人も天台教学を単伝直指の仏法道脈とする以外は固く拒否するようになったというのである。実際は天台教学を拒否する者はもちろん、禅と法相を排斥する者も、禅と法相のことを深く知らないのであろうと、智旭は語っている(17)。このことから間接に明示された巨方照南という人は、性相融会または諸宗合流論の後継者であるとみられる。だが彼の伝記は不詳である。

智旭の著述中に蒼暉霊晟のことが見られるのは、僅か一カ所だけである(18)。それは智旭が『起信論裂網疏』・『選仏譜』・『楞伽経義疏』等三種の著作を出版するために、堅密と蒼暉を留都ヘ勧募につかわすという記録である。現存の『楞伽義疏』の末には「霊峰後学霊晟蒼暉氏」という署名のある「跋語」(19)が載せられており、『選仏譜』(20)の序文には、「霊峰後学霊晟識」という簡略な説明がある。さらに、智旭の『八不道人伝』の前文に、霊晟と照南の二人が、各々一つの「私識」を書き付けている。これらの事実を考察するならば、蒼暉は智旭の晩年期のすぐれた弟子であることは確かである。彼の伝記資料はまだ発見されていない。しかし、民国初年の天台学者古虚諦閑(一八五八ー一九三二)によって見出された天台山万年寺の『天台法系相承譜』には、