すでに蒼輝受晟(蒼暉霊晟の誤り)を霊峰智旭の伝法弟子となし、かつ智旭を無尽伝燈の伝法弟子としている。そして、伝燈を天台第三十代祖に、智旭を第三十一代祖に、受晟(霊晟)を第三十二代祖に、さらに下って諦閑自身を天台第四十三代の祖師としている(21)。こうした法系伝承の観念は智旭にとっては、賛成し難いことであったことでもあろうし、まして智旭の資料の中には霊晟に伝法するという記載は、全く見出し得ない。これは恐らく「霊峰後学」という署名をみて、想像によって成立させた不確実な説にすぎないと思われる。
性旦(?ー一六六二)に関する智旭の記録も、案外に少ない。堅密成時の「性旦行状」(22)によると、智旭が入滅してから八年目に、性旦は亡くなったとしている。また成時の『阿弥陀経要解重刻序』によると、智旭の『阿弥陀経要解』の作成は、一六四七年であるが、一六五三年、安徽の歙浦棲雲院で、これを再び講ずるときに、旧本の解釈と違うところがあり、「歙浦本」と名づけた。すなわち、『浄土十要』巻一に収める流通本がそれに当たる。この流通本『阿弥陀経要解』の記録者は、性旦であると記されている(23)。その上、性旦作『阿弥陀経要解歙浦講録跋』にも、同様の説明がある(24)。とにかく性旦という人物は、智旭の晩年に随身した浄土傾向の弟子であろう。
等慈はとくに戒律学に優れた人物であるが、彼に関する記録はこれだけである。他に用晦という弟子がいるが、彼に対して智旭には二つの資料が残されている(25)。一般に智旭は弟子に対する場合、名を称することは滅多になく、平常では彼らの号を使い、号の下に一つの字を用いる。たとえぱ堅密成時は、「堅密」(26)または「堅密時公」(27)、蒼暉霊晟は、「蒼暉」(28)、巨方照南は、「巨方」(29)と称するのである。ただし、最後の『大病中啓建浄社願文』(30)は、すベて照南・霊晟・性旦・等慈らの名を使っているのであるから、等慈とはすなわち用晦の名であるかも知れない。もしそうであるならば、用晦に対する智旭の評語は、