明末中國佛教の研究 129


汝志兼修福、甚慊予願。但汝資雖穎、質雖誠、志雖立、而禀気柔弱、短於人情世故。(宗論二ノ五巻一六頁)

と明示されている。この「修福」・「柔弱」であってまた「人情」と「世故」に短いという性格を考えると、彼は恐らく一般的な持律者のタイプであろうと思う。

堅密成時(?ー一六四八ー一六七八)は、智旭の弟子の中において比較的に関係資料が多い(31)。彼は禅教二宗の善知識に徧く参訪巡礼してから、遂に智旭に遇うのである。これは智旭五十歳の年(一六四八)のできごとである(32)。しかし、この年が成時の出家してからいく年目にあたるかは不明である。堅密成時に関連する智旭の著作は、

の三点ある。そのうちの第一の資料は、『裂網疏』・『選仏譜』・『楞伽義疏』を出版するために、堅密と蒼暉の二人を留都へ派遣するという記録である。第二の資料は、堅密に「知君雛鳳可離竿」・「不負霊峰徹骨寒」という詩句を贈っていることである。第三の資料は、「戒子堅密時公」と称して、『裂網疏』の内容に対して、堅密成時が種々の問答によって、智旭にかなりの啓発を与えたことを示している。恐らく、儒教者出身の堅密成時は、二十八歳出家して以来(33)、智旭にあって始めて比丘戒の稟受をするわけで、智旭は彼を「戒子」と称している。堅密成時はさすがに儒教者の出身だけあって、学問の素養は素晴らしく、離竿の雛鳳の讃辞が与えられている。

ところで、智旭が亡くなってから堅密成時は、巨方照南と蒼暉霊晟等同門の道友の推挙によって、『八不道人伝』の『続伝』(34)を撰し、蕅益智旭の論集である『霊峰宗論』を編集した。