また「霊峰始日大師私諡竊議」や「霊峰蕅益大師宗論序」と「序説」等を述作し、なお智旭によって選定された『浄土十要』に「総序」を作り、また『十要』中に楚石梵琦(一二九六ー一三七〇)の『西齋浄土詩』を入集したのは、成時の提案によるものである(35)。さらに智旭の『阿弥陀経要解』に「序」を作り、『十要』の章毎に「述要」・「題跋」・「評点」・「節略」等を著した。

これらの堅密成時に関する事項を挙げてみると、彼は実に智旭の晩年の弟子の中において、極めて優秀な人物であったと言うベきであろう。智旭から成時に賜わった恩沢も最も深かったといわれている(36)。しかし、智旭の遺言ともいうべき「大病中啓建浄社願文」に、どうして堅密の名を触れていないのか、この点がよくわからない。恐らく当時の堅密は霊峰山を離れたところにいたのであろうか。

1 『八不道人伝』に、唐の道宣撰の「随機羯磨出而律学廃棄」と批判している。\宗論巻首四頁

2 宗論六ノ四巻八頁

3 永覚元賢撰『真寂聞谷大師塔銘』。\卍続一二五巻三〇六頁CーD

4 「贈純如兄」。\宗論六ノ二巻一三頁

5 宗論六ノ四巻八頁

6 「自観印闍黎伝」。\宗論八ノ一巻一三ー一四頁

7 「寿延寿院新伊法師六十序」に、「比丘果海、則師指示、令其学於不肖也。」と記している。\宗論八ノ 二巻一頁

8 駒沢大学の瑞蓮寺蔵『明蔵続蔵』八十套九本四冊の「梵室偶談」参照。

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10 「退戒縁起並嘱語」に、「予癸酉(一六三三)甲戍(一六三四)、匍匐苦患、公(徹因)独尽心竭力相済於顛沛中、毫無二心。」と記している。\宗論六ノ一巻六頁

11 智旭三十八歳の時代、九華山ヘ引退する前に、彼の手書の『毘尼事義集要』全帙を徹因果海に涕泣しながら譲渡した。その原因は毘尼社の盟友が離散したからである。\宗論六ノ一巻六頁

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13 「房頭」というのは、