物性と人性は宇宙人生の本来の面目であって、なお宇宙の現象と人生の事象からよく観察分析をして、最後に悟境を開き、天地万物を自我の身心に合一するのは、「則ち衆物の表裏と精粗に到らざるなし、しかも吾が心の全体大用は、明らかにせざることなきなる(1)。」ということである。実に「格物致知」という成語は、儒典の『大学』にあるものであるが、朱熹の考え方は、おそらく仏教の禅観工夫の実質を襲取しているのであろう。朱熹のこうした考えについて柳詒徴氏は、つぎのように、
蓋宋之大儒、皆嘗從静養中作工夫、故其所見所證、確然有以見萬物一體、而有無朕無形・萬化自具之妙。故或説性卽理、或説天卽理。(『中國文化史』中冊二一九ー二二〇頁\中華民國三十七(一九四八)年一月初版、正中書局印行)
と述べている。ここに静養というのは、実に仏教の禅観であり、禅観の実践によって、定境に入ると、その身心統一の状態の中に、無人無我の万物一体の感じが、あらわれる。そこで、それを哲学の本体論と合せて説明すると、『二程全書』および『朱子中庸註』にいう「性卽理」となり、さらに『朱子論語註』にいう「天卽理」の理学思想があらわれてくる。
また、陸九淵の思想については、彼の『象山語録』には、
大凡為學、須要有所立。論語云、己欲立而立人。卓然有不為流俗所移、乃為有立。
と述べられており、『宋元学案』の「象山学案」には、
宇宙内事、乃己分内事。己分内事、乃宇宙内事。
と述べられている。これは世間の流俗習慣には従うことなく、立派な目標を立てて、