『新続高僧伝四集』(8)(一九二三年)巻九の「清青陽九華山華厳庵釈智旭伝」 この内容は、「八不道人伝」・「続伝」・「退戒縁起並嘱語」(9)・「答卓左車茶話」・「別衆偈」(10)などの著述に基づくものとみられるが、恐らく『浄土聖賢録』の「智旭」の項を重視したため、智旭の全般的な教学思想の中から、浄土思想だけを紹介して、他の性相融会や三学一致や三教同源などの智旭の思想については、全然触れられなかったものであろう。なおこの伝中に言う「別衆偈」は、智旭の著作の中には発見されていない。ここに引用された「別衆偈」の内容は、智旭の「自像賛」第十八首にあるもので、『新続高僧伝』の作者がわざわざ「別衆偈」と名づけた理由は明らかにし難い。

さらに智旭は確かに三十八歳と三十九歳(一六三六ー一六三七)の二年間、九華山の九子別峰にいたが、彼が自ら使用した署名は、「古呉智旭」・「霊峰蕅益沙門」・「北天目蕅益沙門智旭」の三種だけである。卽ち彼の出生地「古呉」並びに根本道場「北天目霊峰山」をもって、身分の識別をしたのであって、「九華山」の智旭とは一度も名乗っていない。しかるにこれを『新続高僧伝』が「九華山華厳庵釈智旭」と記したのは、どういう理由に基づくものであろうか、これもまた明らかにし難い。

『蕅益大師年譜』(一九三五年) これは弘一演音(一八八〇ー一九四一)の撰であり、作者のはしがきにも記される如く、智旭自撰の「八不道人伝」、成時撰の「続伝」および『霊峰宗論』の諸文を増改し、さらに別行されている智旭の諸疏の序と跋とを参考にして編集したというものである。著作の年代については、中華民国八(一九一九)己未年に初稿を出し、同十(一九二一)辛酉年に修訂し、同二十四(一九三五)乙亥年に再治して、ようやく現存の『?益大師年譜』の体裁ができあがった。このように慎重に編纂した『年譜』には、失誤といえる箇所もなく、極く小部のものであるが今日までの智旭伝の資料としては、もっとも優れたものといっても過言ではないと思う。しかしながら、