明末中國佛教の研究 143


9 宗論六ノ一巻四―七頁

10 実にこの内容は『自像賛』からのものである。\宗論九ノ四巻二〇頁

11 卍続二一巻四三一頁D

12 卍続一四七巻四九八頁B―C

13 「儒釈宗伝竊議」。\宗論五ノ三巻一四ー一九頁

14 林子青編『弘一大師年譜』六八ー六九頁(中華民国三十三年上 海弘化苑出版)

15 弘一撰『蕅益大師年譜』十一頁に「時人以耳為目、皆云大師、独宏台宗。謬矣。謬矣。」と述べている。この「時人」とは、多分古虚諦閑(一八五八ー一九三二)など近代天台宗の学者をさすのではないかと思われる。(一九六八年香港福慧精舎印贈本)

16 小笠原宣秀著『中国近世浄土教史の研究』一八三頁。(昭和三十八年百華苑出版)

三 智旭の姓名別号

姓名別号


智旭の俗姓については、彼が自ら述べたところによると、「俗姓鍾、名際明、又名声、字振之」(1)と云う。ところで、資料にあらわれた智旭の名号は十種類ほどみられるので、ここで詳しく調べてみよう。

大朗優婆塞 これは智旭が出家する以前、二十三歳頃書いた『四十八願』という願文に使用したものである(2)。

智旭 これは二十四歳、雪嶺峻師に従って出家する時に、峻師から正式に受けた法名である(3)。

蕅益 これは智旭が自ら称した号であり、また「蕅益子」・「蕅益道人」・「蕅益沙門」ともよく使用している。意味は称名念仏によって往生極楽を求めた彼が、七宝蓮池の蓮根に滋養を与えんと願う含意であると思う(4)。

西有  智旭が四十九歳のときに著わした『阿弥陀経要解』に使用した署名は「西有沙門智旭」であり、五十歳のときに自輯した文集の命名も『西有寱餘』である。