明末中國佛教の研究 144

また五十四歳のとき編集した文集にも『西有寱餘続集』と署名している。「西有」という号を使う理由について、彼の『西有寱餘』の序文は、「西有は所名にあらず、またこれ号にあらず、祇西方に仏あり、現在して説法せるを信ずるを標す。」(5)と述べている。つまり「西有」とは西方極楽世界にある阿弥陀仏が只今説法中であることに対する深い信仰心を表明することであると思う。

釈大朗・際明禅師・金閶逸史  以上の三つは、共に『闢邪集』に採用されているものであるが、実は三つとも智旭在俗時代の姓・名・号である。「大朗」とは彼が二十三歳の頃使った居士の身分のときの法号であり、「際明」とは彼の俗名であり、「金閶」とはもとより江蘇省蘇州府の別称である。すなわち、蘇州地方の隠逸者であるということで、これは出家した智旭と、隠遁した俗人の鍾際明または居士大朗とは、実は同一人物であるということを示していると思われる。しかし、『闢邪集』は智旭四十五歳の年(一六四三)に撰述されたものであるのに、未だ在俗時代の姓名を使用していることは、注意すべきであると思う。恐らく『闢邪集』の対象が天主教であったため、智旭は儒教学者の同情を集めるために、その論述の思想点においては、仏教の立場を避けて、儒教思想の立場で天主教に反論したのであろうから、ここに智旭が在俗時代の姓・名字・号を用いたとみることができるであろう。

方外史旭求寂  これは『性学開蒙』に使われた智旭の署名である。「方外史」とは、出家した人という意であり、「旭求寂」とは恐らく「智旭求寂」の略称か、または出版する時「智」の字を誤脱したため、「旭求寂」の三字だけとなったのかも知れない。なぜなら、智旭は普段は自ら一字を称することが極めて少ないからである。ともあれ、「智旭求寂」とは「智旭沙弥」と同じ意味である。

素華  これは智旭の著作には一度も見えていないが、彼が出家した時、剃度師から与えられた法号であると思われる。「素華」という称呼で智旭を呼んでいるのは、智旭と同時代または同年輩の緇素である。