以上に掲けられた二十人は、いずれも明末の仏教と儒教の代表的な人物である。仏教関係の十人の中には、禅・華厳・天台・唯識・律・念仏の学者を含んでおり、一方の儒教の陣営には、陽明学派・陽明の再伝・東林学派・考証学派などの学者が含まれている。けれども、地域的に分類してみると、いずれも揚子江以南の人が多い、ことに江藤と浙江との両省の比率が高いのである。これからわかることは、明の晩期において中国の文化の中心地は、すでに都の所在地北京ではなかったということである。つまり、江南を中心としていたのであり、さらに一歩進んでいえば、この江南の文化の中心地ほ、江蘇と浙江との両省であったのである。そして智旭の活躍する舞台も、この江蘇と浙江との両省を中心としたものであった。
ところで、中国古代の地理名称を明確に識別することは、それほど簡単ではない。中国の慣例によれば、あらゆる文献にあらわれている地名や寺名などは、ほとんどその「州」・「府」・「道」・「郡」・「県」・「鎮」・「山」・「城」・「寺」・「院」・「庵」などの名詞を省略していて、滅多に明記していない。そのうえ同一の地名・山名・寺名でも場所が全く違うということが少くなく、また、別の名称で書かれていても同一の場所を示していることも少くない。こうしたことは智旭の著作にみられる地理名称の使い方につい(1)ても例外ではない。とくに明末に使用された県以外の小地名とその新寺院の名称については、いかなる歴史地図並びに歴代地名の参考書類をもって捜しても、全く不明である。