明末中國佛教の研究 158


幸いにして、さきの表に紹介した地理名称の中、発見できないところは、わずか「武水」・「蕅華隖」・「葉園」・「秋曙」などの四箇所のみであった。そこでこれらの調査過程をここで報告したいと思う。そのうち問題になるのは、留都の普徳講堂、姑蘇城の承天寺、竜居の聖寿寺、博山、霊峰山、呉門、祥符、武水の智月庵、菰城の鉄仏寺、長干の大報恩寺、長水の冷香堂と晟谿などである。

留都の普徳講堂


この「留都」という名称についての参考資料は全くない。『中国地名大辞典』・『読史方輿紀要』の索引・『明史』の地理志などをすべて調査したが全く手がかりはなかった。しかし、古呉地方である人物が、智旭が二十一歳頃、すでに留都ヘ行ってきたと記している事実(2)より考えると、その留都という地理的位置は、古呉木瀆鎮から遠く離れない土地であると推測することができる。これだけでは智旭の文献に見られる留都の地理位置について、明確な判断はできないが、浙江の檇李(嘉興府)と江蘇の江寧(南京)の間にあるところではないかと考えられる。すなわち、智旭の文献とは、次の二点である。

とある。このうち苕城と檇李は、浙江省の地名であり、閩とは福建省の略称である。また、済生(庵)は浙江石城山の寺名であって、牛首山の幽棲寺の所在地は南京であり、普徳とは留都にある在家居士の講堂である。智旭は四十歳のときに、安徽省の新安地方から、さらに南方の福建省の泉州や漳州両地にかけて活躍していた。四十四歳のとき、