明末中國佛教の研究 159

北へ戻り、浙江の湖州・嘉興・霊峰を巡錫して、それから四十五歳の冬、留都の普徳講堂に入り、その後、四十六歳と四十七歳の二年間は、牛首山の幽棲寺と石城山の済生庵において活躍している。

ところで、この留都という地名は、一体どこにあるのであろうか。筆者は最後に『明史』の「外国伝」の第七の中に「留都王豊粛・陽瑪諾」(3)という天主教教難事件の記録があるのを見出した。この教難事件の発生地は南京である(4)。また智旭の「重訂諸経日誦自序」にも、「留都」と幽棲寺とを併せて論ずる箇所があり(5)、これらを併せ考えるならば、この留都は実に南京のことであろうと思われる。

さらに、『明史』の「地理志」によれば、留都という名称はないが、明の成祖永楽十九年(一四二一)に南京から北京へ遷都したとき、南京に留守防衛のために、留守左衛・留守右衛・留守中衛・留守前衛・留守後衛という「南京衛」を設置している(6)。その意味は、南京は留守中の都であるので、その安全を守ることが重要であり、それなりの配慮がなされていたことがよくわかる。そのためであろうか『明史』の「馬士英伝」には、南京・南都とともに留都の名称がみられる(7)。以上の論拠から、留都とはすなわち明朝時代の南京の異名であることは明らかとなろう。

姑蘇城の承天寺


智旭の『松陵鑒空禅師伝』の中に、二十八歳のとき「結夏承天」(8)したと述べている。この承天という地名は、智旭の『丙寅(一六二六年二十八歳)解制自弔示諸友』の文にも、「今年結夏姑蘇城」(9)という詩句で説明されている。したがって、この承天という地名は、湖北省の承天県でも、また福建泉州並びに江西九江にある承天寺でもなく、江蘇省蘇州にある承天寺であることが推察できるのである。だが歴史・地理の資料から、蘇州の承天寺を調べることは無理であろう。

龍居の聖寿寺


龍居という地名は、いまだ一般に不明であるといわれる。けれども、