明末中國佛教の研究 16

二 少年期の智旭と明末の理学


明代初期における中国の儒教学術界は、依然として程朱学派の延長にすぎない。なぜなら、明朝科挙制度の受試基準は、程朱の影響から、明の成祖永楽年間に、三大全書、すなわち、『周易大全』二十四巻と『四書大全』三十六巻および『性理大全』七十巻を編成して、これに基準して、考生を選抜したからである。明末に至っても程朱学派の勢力は看過することができない。たとえば、智旭における現存の著作の中にも、『周易禅解』・『四書蕅益解』・『性学開蒙』の三書があるが、・これは前の三大全書の影響を受けて作ったものであると考えられる。

なお、神宗の万暦年間後期に行なわれた東林党争の事件は、非常に有名な文字獄であり、この学派の人々は、陽明学派から変身をして、程朱思想に接近した人々であった。この学派の根拠地である東林書院は、智旭の故郷無錫にあり、東林学派の代表者である顧憲成(一五五〇ー一六一二)と高攀龍(一五六二ー一六二六)の二人はともに無錫の人である。また、程伊川の門人である楊時を記念するために創立した「亀山祠」も無錫にある。したがって、江蘇省の太湖の北浜にある木瀆鎮に誕生した智旭は、幼時から程朱学派の思想を耳濡目染したと考えられるのである。この点について、智旭はなん回も自己反省の気持を告白して、

と述べている。智旭は十二歳の頃、ある科挙試験に必要な儒書を教える師から、聖なる学問を聞いている。すなわち、千古の道脈を承続する「居敬慎独之功」並びに「致知格物之要」を深く究めている(1)。この思想は、実に程朱学派の学者である劉宗周(一五七八ー一六四五)の思想に吻合している。劉氏の『格致大学古記約義』に、「其要旨帰於慎独、此格物之真下手処」という主張を語っている。しかしながら、その当時の智旭は、科挙の道を通って官僚になる積りはなかったと思われる。なぜなら、彼は「天子不得臣、諸侯不得友」(2)の理想をもっており、これはちょうど東林学派の顧憲成が主張(3)するところと呼応しているからである。おそらく、智旭少年時代の師は、東林書院または劉宗周の証人書院メンバーの一人であったのではないだろうか。同時に、明末科挙制度は極めて腐敗し、考生とその及第した人はほとんど無知無才なもので、真面目な読書人はたとえ政治に関心はもっていても官僚になることを望むものは少なかった。智旭の少年時代の考え方も、このような類に属すると断言してさしつかえあるまい。

1 「与行恕」の書簡。\宗論五ノ一巻一三頁

2 同上。

3 銭穆『国史大綱』下冊五八三頁の顧憲成条に「念頭不在世道上、卽有他義、君子不歯」とある。(中華民国四十五年台湾商務印書館出版)