明末中國佛教の研究 18

三 智旭の思想と陽明学


智旭の思想と陽明学派の関係については、すでに荒木見悟氏の『明代思想研究』第十二章(1)に論述されている。智旭の「現前一念心」哲学は陽明の良知心学からヒントを受けた、と推定された荒木見悟氏の見解は非常に興味深いが、私見としては必ずしも賛成できない。その理由については、第五章に後述する。

さて、陽明学そのものは、朱儒よりさらに進歩した新学派であり、また、宋儒の程朱の色彩を揚棄して、改めて禅宗または如来蔵思想と儒教の理念をまとめる一種の新思潮である。基本としては、政府の提唱する心学と科挙制度に同一歩調であるが、程朱学派のような反仏論の色彩は一掃されている。よって換言すれば、明儒の特色を代表するのは、陽明学派の学風であった。この学派の学者は、時として仏教学者と応対し、穏やかな雰囲気の下に、儒仏同源の思想を互に感じ合い、また、仏教の高僧を邀請して、彼らの聚会所である講堂に仏典の精義を講ずることも嫌ってはいない。たとえていえば、智旭自身も、陽明学派に属する普徳講堂より招聘を受けて、『法華経』等を講義したことがある(2)。この普徳講堂については、どんな性質をもつのか、智旭の文献にはっきりしていない。しかし、明末の仏教道場において、独立して講堂を名づけるのは先例がなさそうであるが、明末の陽明学派における数多くの講会が全国に普及していたのは事実であり、それらの名称が、講堂・世廟・ないし精舎などと呼ばれていたのであるから、普徳講堂を陽明学派の一つの講会だと理解することはできるであろう。

このように、智旭と陽明学派との間が親密であったことは確実であるが、一方、宋儒の程朱思想に対し智旭は、多くの反論をしている。すなわち、次に示されるように、