明末中國佛教の研究 161

(卍続一二五巻三〇七頁 C)

と記されているが、信州とは江西の広信であり、豊邑とは江西省南昌府の古地名である。また、『宗統編年』巻第三十によると、この博山が広信にあることは確実(12)とされているから、智旭が訪れた博山が江西省にあることは明自であろう。

霊峰山の異名


霊峰山は智旭の根本道場であるが、智旭の著作にみられる霊峰山は、異った名称を以て表わされる場合がある。すなわち、北天目を始め、鄣南の霊峰、北天目の霊峰山、霊巌寺の百福院、霊峰山の霊巌寺、越渓の天姆峰などの言い方がみられる。浙江省の天目山には、東天目と西天目の両峰があるけれども、北天目という山名は地図にないから、恐らく智旭は霊峰山を北天目と号したのであろうか。霊峰山は霊巌寺とともに、浙江省楽清県にある雁蕩山脈中の名勝である。この雁蕩山脈の支峰である霊峰山は、浙江省安吉県の鄣城以南にあるので、鄣南の霊峰といわれる。この山中主要な寺は霊巌寺であり、その本寺の下にいくつかの末寺、すなわち分院がある。智旭がいたところは、万福院という分院であると思われる。また智旭が使用した越渓天姆峰という名称の意味については、はっきりしない。この名称は、智旭が四十五歳のときに作成した『闢邪集』の序文に、ただ一度使用されているだけである。この序文の日付は、癸未(一六四三)の秋であるが、その年の智旭の夏安居の場所は、霊峰山である(13)。したがって冬になって普徳講堂の『法華経』講座に赴くまでの智旭は、ずっと霊峰山にいたはずで、この越渓天姆峰という場所も、やはり智旭が命名した北天目山の異名であると思われる。

呉門と古呉


智旭の文献には、時に呉門を古呉とよび、時に古呉をもって彼の故郷木瀆鎮を称呼している。古呉とは古代呉の国名であるが(14)、古呉という固有名詞はなかった。