明末中國佛教の研究 162

なお江蘇省の無錫県をまた呉県と称呼することはよくあることである。智旭は正式の署名の場合に古呉を使い、詩文の内容には呉門を使っている(15)。

祥符寺


智旭三十七歳の春に、「雨阻祥符」(16)という経験がある。この祥符とは、地名かあるいは寺名か、この論定は難しい。地名であれば、河南省開封県の古地名に当り、正に智旭の祖先が居住した汴梁の異名である。また、寺の名であれば、『宗統編年』(一六九三年)の編纂者紀蔭は、江蘇省長州府武進県祥符寺の僧であるということになる(17)。しかし、実際には智旭が三十七歳の頃、北方の開封に行くことは不可能なので、雨で智旭を阻めた場所は、おそらく武進県の祥符寺であろうと思われる。

武水の智月庵


武水とは山東省聊城県の地名である。智旭三十七歳の春は、前述したように武進県の祥符寺にあったと考えられ、その翌年の春は、安徽省の九華山に入っているのであるから、三十七歳の夏安居の処は、この武水の智月庵であったと思われる。智旭の行跡を考えると、その年の夏、突然に揚子江および黄河をわたって、山東省の聊城へ往復したとは、とても信じられない。なお、江蘇省棲霞山で、智旭と知り合った自観照印は(18)、江寧(南京)の人で、南京の大報恩寺に出家した人であるが、彼も一六三五年と一六三六年の二年間、この武水の智月庵で、智旭に随身している。そして、智旭が去った後は、彼独りがそこで律蔵を閲している(19)。これによっても、この武水の地理的位置は、やはり南京周辺にあるはずだと考えるのが妥当であろう。

湖州の菰城と苕城の鉄仏寺


湖州とは、今日の浙江省呉興県境内の地名である。菰城とは楚の国の古城であり、苕城とはこの所在地の西側に苕渓という川があるので、この城を苕城とも称するのである。どちらの名を使うにせよそれは同一の場所であり、ここで智旭と関係が認められるのは鉄仏寺である。智旭の資料によると、

長干の大報恩寺


長干とは南京の南五里のところに横たわる岡の名称で、大報恩寺とは長干にあった寺である。これは六朝時代の遺跡建初寺という寺の新名である。しかし、智旭の著作には、長干宝塔(21)や、長干の大報恩寺(22)や、報恩塔(23)などいろいろな呼称をもってあらわされている。なお智旭は憨山徳清(一五四六ー一六二三)並びに雪浪洪恩(一五四五ー一六〇八)の二人を明末万暦年間(一五七三ー一六一九)、大報恩寺の二傑と称讃している(24)。