明末中國佛教の研究 164

この称讃の意識の内には、六朝時代から明末にいたるまで、大報恩寺が絶えず人才を育ててきたことが含まれているのであろう。この時、智旭はすでに三十一歳であったが、無異禅師大艤元来(一五七五ー一六三〇)に伴われてこの古寺を訪ね、かつこの寺にある仏舎利塔を礼拝して一つの願文を作ったのである(25)。

晟谿と長水


長水とは浙江省嘉興の長水地方であると考えられ、これは宋のいわゆる楞厳大師子璿(九六五ー一〇三八)の所在地であるが、晟谿の方はどこを指すのであろうか、この地名もなお不明であった。しかし、智旭の「楞伽義疏後自序」に、

壬辰(一六五ニ)結夏晟谿、無處借藏。乃以六月初三日擧筆、至八月十一日閣筆於長水南郊之冷香堂。(宗論六ノ四卷一四頁)

と述べているから、この晟谿とは恐らく長水地方の小地名あるいは寺名であると推測される。正確にいえば、智旭五十四歳(一六五二)の結夏安居のところは、長水地方にある晟谿(寺)であるが、『楞伽義疏』を作成した場所は、晟谿(寺)の冷香堂であるとみられるのである。

蕅華隖・葉園・秋曙


この三箇所の地理上の位置は、明確にならないが、これらの年代順次と智旭の行跡を調べて両者を併せ考えると、おおよその推測ができると思う。

智旭四十九歳(一六四七)の大晦日は、金陵(南京)の祖堂山幽棲寺におり、翌年五十歳の一月は、蕅華隖というところに仮寓し(26)、さらに葉園というところに寓していた(27)。また翌年(一六四九)智旭五十一歳の九月には、彼はまっすぐ金陵から浙江の霊峰山へ帰っている。智旭は四十八歳のときの重陽節に、金陵の祖堂山に行って(28)から五十一歳の九月まで、南京地区を離れ、その間の主要住処は祖堂山の幽棲寺と長干の大報恩寺である。この事実によって推測すると、